キューティー鈴木
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鈴木は当初関心を示さなかったが、アイドル対決と呼ばれた井上貴子との試合にライバル心を燃やす。全女との試合では「同じプロレスなのに組み方や間のとり方が全然違う。」という違和感をむしろ楽しんだという[2]。11月、元クラッシュギャルズ長与千種の復帰戦でタッグパートナーを務め、翌1994年3月13日には、シングルで初対戦するが、48秒で敗北。4月10日、後楽園ホールにてコマーシャルで人気者になったレジー・ベネットとタッグを結成、以後たびたび二人はタッグを組むことになる。

1994年11月20日の東京ドームで行われた『憧夢超女大戦』では井上貴子と越境タッグを組み工藤めぐみ、福岡晶組と対戦。26、27日には尾崎と共にアメリカ、バージニア州でのWCWの試合に遠征、ブル中野北斗晶組と2連戦をこなす。北斗とは初対戦であった。

1995年5月14?16日、JWPの中国遠征で北京市と天津市で、6月3?5日の韓国遠征で釜山市、光州市で試合をする。

この時期、「私の新人指導は厳しいですよ。優しいだけでは結局、彼女たちのためにならないから徹底的にしごいてやります。[10]」と厳しい指導者的な役割も担った。同じ頃から、インタビューでは「デビル雅美、関西にシングルで勝ちたい。」と二人をしきりに意識した発言をするようになる。

1995年6月16日両国国技館での対ボリショイ・キッド戦にて、生涯で一度のマスク着用による試合を行う。純白のタイガーマスクに似たデザインであった。12月24日には、後楽園ホールでのデビュー10周年記念試合を行う。

当時のJWPは、大塚製薬がスポンサーであったため、リング上でオロナミンCドリンクやジャワティーを一気飲みするなど宣伝に努めた。

次第に引退を考え始めていたが、1997年8月、盟友であるプラム麻里子がリング上のアクシデントで亡くなるという事故が起き、もう少し会社のために頑張らなくてはと思いとどまる。事故後、「彼女がやり残した分までプロレスをやっていきます。いつもどこかにいると思うからプラムに怒られないように頑張っていきたい。[16]」とのコメントを残した。

1998年10月15日、引退を正式表明。12月27日、20代の元気なうちに引退したかったという本人の希望を汲み、29歳で後楽園ホールにて現役生活を終える。引退試合は関西とのシングルマッチの予定だったが関西が怪我で欠場。8人タッグで勝利を飾り、リング内で仲間たちに胴上げされ選手生活にピリオドを打った。引退の理由としては、ケガや体力の衰えなど明確なものではなく、「やるべきことは全てやったし、もう後輩に教えることもない。」という漠然としたものであった[2]。終生のライバルであった尾崎との戦績は、10勝1分け25敗[17]。引退後も芸能の仕事は継続する。
引退後

30歳の時、新宿ホストクラブで7年連続ナンバー1のホストで、自らの店と格闘技ジム、シュートボクセ・アカデミージャパンの代表であった3歳年下の原嶋秀行(2014年現在、病院事務員に転職)と出会い、2005年5月5日、35歳で結婚、7月10日都内で挙式した[18]

2006年7月25日、緊急帝王切開で長男を出産[19]

2011年7月21日、次男を出産。不妊治療をして授かった[20]

尾崎が代表を務めるOZアカデミーに、頻繁にゲストとして呼ばれている他、ニコプロの尾崎・ダイナマイト・関西と共にニコ生にも出演する。

現役時代の付き人日向あずみがおり、2009年12月27日の日向引退セレモニーにも来場している。

2012年発売の『週刊プロレス(4月4日号)』(ベースボール・マガジン社)で、引退後10年以上経過した女子プロレスラーとしては異例の24ページ、カラーでの特集が組まれる。

2012年4月22日、後楽園ホールで行われたJWP20周年記念大会に来場し、JWP二冠タッグ選手権試合の立会人を務めた[21]
エピソード

人気が出始めた頃、多忙ゆえ自身の出演するテレビや雑誌を見る時間がなかったため、街で声をかけられても「なぜ自分のことを知ってるんだろう?」という感覚しかなかったという
[13]

尾崎は「キューティーはいじめ甲斐があった。弱くて下手だったので、いじめるのには一番の獲物でした。本気で怒る(キューティーの)ファンの反応が面白かった。[22]」と語っている。

写真集撮影の直前に、試合で顔を蹴られ腫れ上がってしまった。その際、蹴った側の選手がフロントから「大事な写真集の撮影の前になんてことするんだ。」(尾崎談)と叱責されている。そのことが団体内での孤立を深めた一因として挙げられている[2]

元全女のデビル雅美に指導を受けた際、JWPの選手はボディスラムの上げ方がおかしいと指摘された。男子レスラーの指導を受けてきた選手たちと、全女とのプロレス観の違いを示す出来事として挙げている[9]

JWPは、全女に存在した三禁(酒、タバコ、男)のような規則に寛容で、鈴木は「巡業先でも結構、飲みに行ってました。」と語っており恋人と交際もしていた。巡業後は、恋人と早く会うべく自費で飛行機や新幹線で帰ることもあり、ギャラがほとんど残らないこともあったという[23]

試合の映像を観た息子から「ママは弱い。」と言われた[24]

鉄平という源氏名でホストとして活躍していた原嶋秀行の店に、5年間通いつめ結婚までこぎつけた[25]

結婚後、夫の趣味であるアニメのフィギュアや世界中の昆虫、恐竜の化石のレプリカ、動物の剥製収集などに頭を悩ませている[25]

タイトル歴

第11代
UWA&JWPジュニア王座(1991年10月10日、ザ・スコルピオンを破って獲得。)ジャパン女子プロレス時代

初代JWP認定タッグ王座(1992年8月9日、尾崎とのタッグで獲得、1993年3月21日、関西、デビル組に敗れるまで保持。)以下JWP女子プロレス時代

第3代JWP認定タッグ王座(1993年12月2日、尾崎とのタッグで奪還、1994年3月27日、三田英津子下田美馬組に敗れるまで保持。)

第6代JWP認定タッグ王座(1995年3月18日、関西とのタッグで尾崎、福岡組から奪取、12月9日、KAORU、福岡組に敗れるまで保持。)

第8代JWP認定タッグ王座(1996年7月7日、関西とのタッグで奪還、11月26日、デビル、福岡組に敗れるまで保持。)

第12代JWP認定タッグ王座(1998年6月14日、デビルとのタッグで福岡、日向組から奪取、7月31日、福岡、日向組に敗れ王座から転落。)

得意技
ジャンピング・ニー・アタック
若手時代から引退まで使い続けた。
フルネルソン・スープレックス
相手の背後からフルネルソンに捉え、そのまま後方にスープレックスで反り投げてフォールする。藤波辰巳(現:藤波辰爾)が元祖で、そのニックネームからドラゴン・スープレックスとも呼ばれる。
キューティースペシャル
変形ブロックバスター・ホールド。クラッチが女子式ボディスラムと同型である点が通常のブロックバスターと異なる。突進してきた相手へのカウンターとしても用いられる。JWPの後輩である中島安里紗がフィニッシュ・ホールドとして継承した。決まる時と決まらない時の差が激しかったと後に回想している[2]
ダイビング延髄ニー
コーナーポストから相手の後頭部へ膝を当てる技で、エプロンから場外にいる敵に放つ場合もあった。「試合の流れを変えるために使い始めた[2]」と言っており、付き人の日向あずみに継承された。
魔神風車固め


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