キュロス2世
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ペルシアの王都はアンシャンにあり、ペルシア国王はアンシャン王の称号も代々保持していた。アンシャンはエラムの故地でもあり、エラム語やエラムの諸制度を引き継いでいたものの、エラム王国自体は衰退して西部のスサ周辺のみを領有するようになっていた。紀元前559年にキュロスは即位し、ペルシア王国第7代の王(紀元前559年-紀元前550年)となった。
メディア王国への反乱

紀元前552年にメディアに反乱を起こした(en:Persian Revolt、en:Battle of Hyrba)。紀元前550年にメディア王に恨みを抱いていたメディアの将軍ハルパゴスの裏切りもあり(en:Battle of the Persian Border)、メディアの首都エクバタナを攻略してメディア王アステュアゲスを打倒し、宗主国メディアを滅ぼした。この時をもって、統一王朝としてのアケメネス朝が始まったとされる。キュロスはエクバタナを制圧するとメディア領土全域の制圧に乗り出し、これを支配した。
リュディア王国征服

次に不死身の1万人(不死隊)と呼ばれた軍団を率いて小アジア西部のリュディア王国に攻め込んだ。紀元前547年秋のプテリアの戦いでは引き分けたが、同年10月のテュンブラの戦いではリュディア王クロイソスを破り、続いて首都サルディス攻囲戦でリュディアを征服した。ヘロドトスによればその時キュロスはクロイソスを火刑に処そうとしたが、クロイソスがアポロンに嘆願すると突如雨が降って火を消したため、キュロスはクロイソスの命を助けた。その後、クロイソスはキュロスに参謀的な役割で仕えた。この後、さらにハルパゴスに命じてカリアリュキアイオニアギリシア人ポリスといったアナトリア西端のエーゲ海沿岸地方を恭順させた。紀元前546年には旧ペルシア地方に新首都パサルガダエの建設を始めた。
新バビロニア征服キュロス2世のバビロン侵攻直前の古代近東

紀元前540年にはスサを陥落させ、エラム王国を滅ぼした。キュロスの征服活動は止まる暇もなく、その翌年の紀元前539年オピスの戦いナボニドゥス率いる新バビロニア王国軍を大敗させ、10月29日にバビロンに入城して「諸王の王」と号した[3]紀元前538年または紀元前537年に「キュロスの勅令」を発し、バビロン捕囚にあったユダヤ人をはじめ、バビロニアにより強制移住させられた諸民族を解放した。キュロスは被征服諸民族に対して寛大に扱い、旧約聖書においてもユダヤ人を解放する唯一の非ユダヤ人メシア(救世主)であると評された(イザヤ書45章1節)[4]。またこのとき、キュロスは新バビロニアのネブカドネザル2世によって略奪されていたエルサレム神殿の什器を返還し、エルサレムに神殿の再建を命じた。この再建は難航し、紀元前520年ごろに第二神殿が完成した時にはキュロスはすでに死去していたものの、キュロス以降も継続された宗教寛容政策に彼への尊敬も相まってか、ユダヤ人はアケメネス朝の統治下においては一度も反乱を起こさなかった[5]。キュロスは子のカンビュセス2世にバビロンの統治を命じ、旧バビロニアの統治機構をそのまま利用して統治を進めた。この時期にキュロスは宣撫文書としてキュロスの円筒印章を作らせ、ペルシアの統治の正当性を主張させた。
中央アジア征服

彼はさらに東方辺境に転戦して、バクトリアソグディアナを征服し、サカを従属させて、この地域の総督としてスメルディス王子を置いた。


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