キヤノン
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日経平均株価およびTOPIX Large70の構成銘柄の一つ[8][9]

製販が分離しており、マーケティング・販売業務は、地域統括販売会社(キヤノンMJ(CMJ)、キヤノンUSA、キヤノンヨーロッパ、キヤノン中国(佳能)、キヤノンオーストラリア)を中心に展開されている。
概要

1937年設立のOA機器の総合メーカーである。おもな事業内容として、オフィスビジネスユニット(オフィス向け複合機、レーザー複合機、レーザープリンターなど)、イメージングシステムビジネスユニット(レンズ交換式デジタルカメラ、コンパクトデジタルカメラ、デジタルビデオカメラ、交換レンズ、インクジェットプリンターなど)、産業機器その他ビジネスユニット(半導体露光装置、フラットパネルディスプレー露光装置、医療画像記録機器など)を展開している。米州、欧州など海外売上高比率がきわめて高い。

1949年の上場以来、年間での赤字は一度もない。
経営状況

連結業績のセグメント別売上高構成比は、プリンティング56%、イメージングシステム21%、メディカル13%、インダストリアルその他13%である。地域別売上高では、国内より欧米市場など海外が大きなウエイトを占めており、国内が20.8%、海外が79.2%となっている。海外生産比率は同60%。17年12月期第3四半期累計(17年1月から9月)の連結業績(米会計基準)は、売上高2兆9597億円(前年同期比21.5%増)、営業利益2524億円(同69.8%増)だった。第3四半期(7月から9月)に限ると、売上高9945億円(前年同四半期比27.7%増)で、営業利益は805億円(同2.0倍)。レーザープリンターの回復が継続し、カメラは新製品を中心に堅調に推移。フラットパネルディスプレー露光装置、有機EL蒸着装置の大幅な伸長、TMSCの新規連結影響も寄与した。損益面では、継続的なコストダウン活動が奏功している。17年12月期の連結業績は、売上高4兆800億円(前期比19.9%増)、営業利益3500億円(同52.9%増)を計画。第3四半期決算発表時に売上高で300億円、営業利益で200億円それぞれ上方修正した。為替前提の円安への見直し、TMSCの寄与などが要因である。
特許戦略

海外での特許出願も重視しており、2014年末時点での特許・実用新案の保有件数は、世界全体で約9万2000件である。海外出願に際しては、地域ごとに事業戦略や技術・製品動向を踏まえて出願戦略を綿密に立て、必要な国や地域を見極めたうえで出願し、なかでも、ハイテク企業が多く、市場規模も大きい米国での出願に注力している。結果として近年登録数が増加し、2014年には日本企業として初めて4,000件を突破した。米国特許取得件数における日本企業中のキヤノンのランキングは11年連続1位を獲得している。
雇用形態

社員の役割や実績に応じて賃金を決める役割給制度を採用している。制度上、給与のベースアップは長らく実施しなかったが、2023年1月、物価高に対応するため20年ぶりにベースアップを実施。全従業員2万5000人の基本給を一律で7000円引き上げた[10]
社名
由来

キヤノンの前身は、1933年(昭和8年)11月12日頃に、内田三郎・吉田五郎(吉田は翌年の9月末までに退所)によって創立された精機光学研究所[11]観音菩薩の慈悲にあやかりたいという気持ちから、1934年(昭和9年)に完成した日本産初の精密小型カメラの試作機を「KWANON」(カンノン)[12]、そのレンズを「KASYAPA」(カシャパ)と命名した[13]。KASYAPAは、釈迦の弟子のひとりである大迦葉: Mah?k??yapa マハーカーシャパ、: Mah?kassapa マハーカッサパ)に由来している[14]

1935年(昭和10年)、世界で通用するカメラのブランド名として、Canon(キヤノン)が採用された[12]。「正典」「規範」「標準」という意味を持ち[15]、正確を基本とする精密工業の商標にふさわしいことと、KWANONに発音が似ていることが、この名称を採用した理由とされている[12]。現在のロゴ(右上テンプレート内の形)は1956年(昭和31年)より使用されており、1974年(昭和49年)からロゴの色がキヤノンレッドになっている[16]
正式な表記

日本語における正式な表記は「キヤノン」であり、小字を用いた「キャノン」ではない。拗音の「ヤユヨ」を大書きするのは、かつて(第二次世界大戦前から終戦直後まで)の歴史的仮名遣で当たり前の表記法だったが、現代仮名遣いでは一般的でない。この表記を続ける理由は、バランスを考慮して、小字の「ャ」の上の空白によって穴が空いたように感じられることを避けたためである[17]
歴史
沿革

ライカが輸入されはじめて間もない1932年吉田五郎はライカII型を購入し、その模倣品を製作した。1933年10月に、それを持って義弟であった内田三郎の元を訪ね、ライカに匹敵する高級カメラ製造事業化を熱心に勧めたが、この時点で内田は山一證券の外務員として法人相手の大口証券取引を扱っており、カメラ製造にはまったく興味を示さなかった。しかし証券売買で知り合った鮎川義介の事業観「資源が少ない我が国では、材料の原価に占める割合が少なく、たとえば光学精密機械や純度の高い化学工業が有望である」(=加工貿易)に接して一転カメラ製造を決意し、3年の研究期間を設定し1933年11月研究所を立ち上げた。この研究所がキヤノンのルーツで、吉田の発案で「精機光学研究所」という名称が決められた。場所は吉田が乃木坂の自宅から歩いて数分、東京市麻布区六本木町62番地[注釈 1]に存在した新築洋風三階建ての「竹皮屋ビル」を見つけてきてその一角を借りた。竹皮屋とは、オーナーの家系が江戸時代から竹の皮で被り笠を編んでいたことに由来する。日本光学工業(現・ニコン)から精度にうるさい金子富太郎、型削り盤を扱う油山が移り、また腕が悪くて困り者であった旋盤工の加藤が最初期の従業員であった。そのうち外装部品の調達や金銭管理が必要になり、内田が山一證券から部下であった前田武男を連れてきた。

カメラ開発は吉田に一任され、内田は言われるまま金を工面した。部品の外注は吉田がトーキー製造をしていたころに親しくなった一の橋の和田兄弟がやっていた機械工場や、狸穴の坂口時計歯車店に依頼していたが、図面で渡すより現物渡しで依頼したほうがかえってうまくいったという。1933年、国産で初めての35ミリフォーカルプレーンシャッターカメラ「Kwanon(カンノン)」を試作した。開発は難航し、吉田の在職中に1台も販売できていないが、アサヒカメラ1934年6月号には有名な「潜水艦ハ伊號 飛行機ハ九二式 カメラハKWANON 皆世界一」というコピーで広告を出した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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