キヤノン
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観音菩薩の慈悲にあやかりたいという気持ちから、1934年(昭和9年)に完成した日本産初の精密小型カメラの試作機を「KWANON」(カンノン)[12]、そのレンズを「KASYAPA」(カシャパ)と命名した[13]。KASYAPAは、釈迦の弟子のひとりである大迦葉: Mah?k??yapa マハーカーシャパ、: Mah?kassapa マハーカッサパ)に由来している[14]

1935年(昭和10年)、世界で通用するカメラのブランド名として、Canon(キヤノン)が採用された[12]。「正典」「規範」「標準」という意味を持ち[15]、正確を基本とする精密工業の商標にふさわしいことと、KWANONに発音が似ていることが、この名称を採用した理由とされている[12]。現在のロゴ(右上テンプレート内の形)は1956年(昭和31年)より使用されており、1974年(昭和49年)からロゴの色がキヤノンレッドになっている[16]
正式な表記

日本語における正式な表記は「キヤノン」であり、小字を用いた「キャノン」ではない。拗音の「ヤユヨ」を大書きするのは、かつて(第二次世界大戦前から終戦直後まで)の歴史的仮名遣で当たり前の表記法だったが、現代仮名遣いでは一般的でない。この表記を続ける理由は、バランスを考慮して、小字の「ャ」の上の空白によって穴が空いたように感じられることを避けたためである[17]
歴史
沿革

ライカが輸入されはじめて間もない1932年吉田五郎はライカII型を購入し、その模倣品を製作した。1933年10月に、それを持って義弟であった内田三郎の元を訪ね、ライカに匹敵する高級カメラ製造事業化を熱心に勧めたが、この時点で内田は山一證券の外務員として法人相手の大口証券取引を扱っており、カメラ製造にはまったく興味を示さなかった。しかし証券売買で知り合った鮎川義介の事業観「資源が少ない我が国では、材料の原価に占める割合が少なく、たとえば光学精密機械や純度の高い化学工業が有望である」(=加工貿易)に接して一転カメラ製造を決意し、3年の研究期間を設定し1933年11月研究所を立ち上げた。この研究所がキヤノンのルーツで、吉田の発案で「精機光学研究所」という名称が決められた。場所は吉田が乃木坂の自宅から歩いて数分、東京市麻布区六本木町62番地[注釈 1]に存在した新築洋風三階建ての「竹皮屋ビル」を見つけてきてその一角を借りた。竹皮屋とは、オーナーの家系が江戸時代から竹の皮で被り笠を編んでいたことに由来する。日本光学工業(現・ニコン)から精度にうるさい金子富太郎、型削り盤を扱う油山が移り、また腕が悪くて困り者であった旋盤工の加藤が最初期の従業員であった。そのうち外装部品の調達や金銭管理が必要になり、内田が山一證券から部下であった前田武男を連れてきた。

カメラ開発は吉田に一任され、内田は言われるまま金を工面した。部品の外注は吉田がトーキー製造をしていたころに親しくなった一の橋の和田兄弟がやっていた機械工場や、狸穴の坂口時計歯車店に依頼していたが、図面で渡すより現物渡しで依頼したほうがかえってうまくいったという。1933年、国産で初めての35ミリフォーカルプレーンシャッターカメラ「Kwanon(カンノン)」を試作した。開発は難航し、吉田の在職中に1台も販売できていないが、アサヒカメラ1934年6月号には有名な「潜水艦ハ伊號 飛行機ハ九二式 カメラハKWANON 皆世界一」というコピーで広告を出した。7月号、8月号、9月号にも広告を出したがカメラの仕様が吉田の試作機に対応して少しずつ変わっている。

吉田がこだわった、コンタックスI型のようなボディー前面巻き上げ方式はベベルギアが必要になるが、坂口時計歯車店では歯切り機がよくなくうまく切れなかった。吉田が夏の暑い日にフォーカルプレーンシャッター幕のべとつきで苦労していると、内田は知人で第一師団麻布歩兵第一連隊中隊長だった山口一太郎大尉を連れてきて、山口は輸入物で軍用航空写真機用ゴム引き布幕を1反ほど持ってきた。この布幕について小倉磐夫は小西六[注釈 2]から持ってきたと推定している。そのほかにも連動距離計、撮影レンズ、ヘリコイドの工作と問題山積の1934年11月、経理担当の前田が5,000円の使途不明金があった旨を内田に告げ、吉田は濡れ衣を着せられて退職した。吉田の退職と前後し、内田は山口の指導を受け、手作りによる試行錯誤の手法から脱し、設計図に従って試作し改良する手法へと転換した。光学系も日本光学工業の監督官をしていた次兄内田亮之輔のつてで日本光学工業の取締役顧問であった堀豊太郎を紹介してもらい、1934年9月、内田と前田は日本光学工業を訪れてレンズと距離計を依頼した。営業課課長の山本茂治と民需品担当の浜島昇係長が応対してこれを引き受け、レンズ設計者の砂山角野を電話で呼んだ。軍需製品では実際の設計者の功績は明らかにされず、軍人が評価されることが多いことに不満を感じていた砂山角野も乗り気となり、1935年始めにはニッコール50mmF3.5とニッコール50mmF4.5が完成した。なお、カメラの心臓部とも言える連動式焦点調節機構やヘリコイドの設計・制作は日本光学工業で民需品の設計を担当していた山中栄一の手によるものである。

1935年(昭和10年)には「キヤノン」「Canon」を商標登録し[18]、無名でかつ販売ルートを持たないため近江屋写真用品と独占販売契約を結んでそのブランドであるハンザを冠し最初のカメラ製品、ハンザキヤノン標準型ニッコール50mmF3.5付きを1936年2月発売したが、ちょうどそのとき目の前の第一師団麻布歩兵第一連隊も舞台のひとつとして二・二六事件が起こり、山口も収監された。驚いた精機光学は1936年6月目黒区中根町に移転した。
年表

1933年(昭和8年)- 東京麻布六本木に高級小型写真機の研究を目的とする「精機光学研究所」を開設。

1934年(昭和9年)- 国産初の35mmフォーカルプレーンシャッターカメラ「KWANON(カンノン)」試作。

1935年(昭和10年)- 商標「CANON」出願。

1937年(昭和12年)- 精機光学工業株式会社として設立。

1940年(昭和15年)- 国産初のX線間接撮影カメラを開発。

1942年(昭和17年)- 御手洗毅、精機光学工業株式会社社長に就任。

1946年(昭和21年)- 戦後初のカメラ新製品「キヤノンS II」発売、進駐将兵、来日バイヤーに好評を博す。


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