キャンベラ
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当時のオーストラリアの二大都市であるニューサウスウェールズ州の州都シドニービクトリア州の州都メルボルンの間で、独立後の連邦の首都の座をめぐって[25]、長い間、議論がなされていた。しかし、お互いが自らの都市を首都にしたいという意向を持っており、なかなか結論に至らなかった。最終的に、シドニーから最低でも100マイル以上離れている所[23]に新しい首都を建設すべきという妥協案が採用され、新首都選定の間、メルボルンを暫定的な首都とすることになった[26]

クイーンビアンの新聞社のオーナーであるジョン・ゲイルは「Dalgety or Canberra: Which?」というパンフレットを配布し、キャンベラ地区が連邦政府の立地にふさわしいと宣伝していた。1909年、政府の調査団を率いたチャールズ・スリヴェナー(英語版)の調査結果が決定打となり、キャンベラ地区が首都の建設地に選定された[27]。ニューサウスウェールズ州政府は、連邦政府に、連邦首都地域という形で土地を割譲した[23]

1911年5月24日[28]、キャンベラの都市デザインの国際コンペが実施され、シカゴの建築家ウォルター・バーリー・グリフィンとマリオン・マホーニー・グリフィンが提出した計画が採用された[29][30][31]。グリフィンの案では、キャンベラの街は、円、六角形、三角形などの幾何学模様がモチーフとして採用されている。加えて、丘や湖が、キャンベラの景観上、重要なランドマークとなっている。また、田園都市思想の影響を強く受けており、都市区域内には自然の植生の地域を組み込んでいる。1913年、グリフィンは首都の設計と建設の責任者に任命され、建設が開始された[32]
建設1927年、開場当時の初代連邦議会

1913年3月12日 [33]、第5代オーストラリア総督トーマス・デンマン (第3代デンマン男爵)の夫人(英語版)によって正式に「キャンベラ」と命名され、クラジョングの丘でそのセレモニーが実施された[34]。この丘はそのセレモニー以来、キャピタル・ヒルと呼ばれるようになり、現在はオーストラリア連邦議会が置かれている[35]キャンベラの日はキャンベラ創立を祝してACTで制定され、3月第2月曜日に実施される[22]

都市建設が始まると、官僚がグリフィンの計画に干渉するようになった[36]。グリフィンと連邦政府の関係は緊張したものとなり、キャンベラ建設に拠出される予算も少なかった。このためグリフィンが担当した仕事はごくわずかだった[37][38]。結局、グリフィンは最初の計画に変更を加えなければならなかった。1920年、グリフィンは解雇された。

1927年5月9日、初代議会堂(オーストラリア連邦議会)(英語版)が開場し、キャンベラは正式にオーストラリアの首都となった[39]。スタンレー・ブルース首相[40]は、その数日前に首相公邸であるザ・ロッジ(英語版)に入居した[41]。しかし、1930年代の大恐慌時代とそれに続く第二次世界大戦の時代の間、計画都市の建設は遅々として進まなかった[42]ローマ・カトリック聖公会のカテドラルを含めた建設が計画されたが、完成しなかった[43]バーリー・グリフィン湖、旧議会堂の背後に現連邦議会堂

グリフィンの計画を引き継いだのは連邦首都助言委員会(1921?24)[44]、連邦首都コミッション(1925?30)[45]、国立首都計画発展委員会(1938?57)だった。しかし彼らはあくまで助言機関に過ぎず[46]、最終決定権は連邦政府が保持していたため、時を経るにつれて非効率となってきた[47]

第二次世界大戦後、キャンベラは「田舎町」のようだと酷評を受けた[48][49]。街並みが洗練されていないという意見も聞かれた[50]。キャンベラはいくつかのサバーブ(郊外)の集まりに過ぎないという意見もあった[51]ロバート・メンジーズ首相[52]もキャンベラは国家の首都としては貧弱であると認識していたが、就任当初は具体的な行動は起こさなかった。しかし、その後メンジーズは態度を変え、街の発展を真剣に考えるようになった。メンジーズは、2人の関係閣僚を解雇し、新任者に改善策を出すよう指示した。10年以上に及ぶメンジーズ政権の時代にキャンベラは急速に発展した[53][54]

メンジーズは1957年に国立首都発展委員会(NCDC)を設立した。NCDCは上述の3つの機関の後継として設立されたが、より効率的な組織であった[55]。NCDCは40年に及ぶ人工湖バーリー・グリフィン湖の形とデザインをめぐる論争を終わらせ、4年間の工事でこの湖の建設を完成させた[56]。最終的に、キャンベラ中心街はバーリー・グリフィン湖の上にキャピタル・ヒル(現在、オーストラリア連邦議会がある)、旧国会議事堂、オーストラリア戦争記念館の3ヶ所を結ぶ、いわゆる「パーラメンタリー・トライアングル」を建設するというグリフィンの計画通りとなった[57][58]

キャンベラの人口は、1955年から1975年の間、5年ごとに50%の人口成長を成し遂げた。州政府から連邦政府への権限委譲も進み、多くの公務員がキャンベラに移住した。オーストラリア首都地域住宅公社(英語版)がキャンベラの人口増加に大きな貢献した[59]

オーストラリア国立大学の拡張が実施され[58]、また、さまざまな彫刻やモニュメントも作られた[60]。国立図書館は、オーストラリア高等裁判所とオーストラリア国立美術館によって構成されるパーラメンタリー・トライアングルの内側に建設された[18][61]。しばしば、北キャンベラと南キャンベラとも呼ばれるキャンベラ中心部のサバーブは1950年代に開発された[62]。さらに、ウォーデン・ヴァレー(英語版)やベルコンネン(英語版)と呼ばれている地域もまた、それぞれ1960年代の半ば、あるいは後半に発展していった[63]

キャンベラ周辺に建設された新しいサバーブには、オーストラリアの政治家の名前が付けられている。例えば、 Barton、Deakin、Reid、Braddon、Curtin、Chifley、Parkesは、それぞれ、エドモンド・バートンアルフレッド・ディーキンジョージ・リード、エドワード・ブラッドン(英語版)、ジョン・カーティン、ベン・チーフリー(英語版)、ヘンリー・パークス(英語版)にちなむ[64]アボリナジルテント大使館は放火によって一部が破壊されている

1972年1月27日はアボリジナルテント大使館が連邦議会の近くに建設された日ということで、キャンベラの歴史に記録されている。この大使館は先住民の権利と土地問題に関心を集めるために建てられたもので、テント大使館は1992年まで連邦議会前を占拠した。

1988年5月9日[65]、オーストラリア建国200周年を記念して新オーストラリア連邦議事堂がキャピタル・ヒルに開場した[18][61]


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