この模様は収録され、3日後の4月7日にTBSテレビ系列により全国に録画でテレビ放送され[注釈 2]、平均視聴率32.3%(関東地区)という、単独アーティストによる音楽番組としては歴代1位の高視聴率を獲得している[6]。コンサートの最後に歌われた「つばさ」の曲中にあるセリフパートの最後で3人が叫んだ「本当に、私たちは、幸せでした!!」の口上も有名。この曲は先に解散を知った全国キャンディーズ連盟の有志が作った「3つのキャンディー」という歌への返歌としてランが作詞したものである。歌う前にランが「やはりこの歌を歌いたい」と言ったのはそのためである。
なお、解散直後もTBSテレビ『ザ・ベストテン』内では「微笑がえし」が引き続きランクインしたため、慰労会を兼ねたスタッフとの日本国外でのバカンス中に、電話ではあるがテレビ出演をしたことがある[7]。 解散後は一度も再結成を行わなかった[8]。ただし、プライベートではときどき3人で集まっていたという。
解散後
ランは、1980年(昭和55年)に芸能界へ復帰。俳優・歌手の水谷豊と1989年(平成元年)に結婚し、1児の母となる(なお、実娘で女優の趣里は2人の長女である)。復活後は主に女優として活動。さらに2019年(令和元年)にはアルバム『My Bouquet』をリリースし、キャンディーズ解散以来41年を経てソロ歌手としてデビュー。以降シングル曲、アルバム、DVDなどを発売し、ソロコンサートも開催している。2023年(令和5年)の第74回NHK紅白歌合戦に46年ぶりに出場し、キャンディーズ時代の3曲(「年下の男の子」「ハートのエースが出てこない」「春一番」)を披露した[9]。会場には150人超のファンが集まりコールや紙テープ投げも行われた[10][9]。
スーは、1980年に復帰後、主に女優として活動。その間、一時ソロ歌手として、音楽活動も行いシングル「カボシャール」などをリリース。1991年(平成3年)に結婚(夫は夏目雅子の兄)。子供はなかった。2011年(平成23年)4月21日に乳がんのため55歳で死去、最期はランとミキの2人に看取られながら息を引き取ったという。
ミキは、1983年(昭和58年)にソロ歌手として期間限定で復帰、カネボウ春のキャンペーンソング「夢・恋・人」(シングル、アルバムともに同名)を発表。同年2月10日にTBSテレビ『ザ・ベストテン』の「今週のスポットライト」に出演。3月14日には日本テレビ『ザ・トップテン』の今週の話題曲のコーナーに出演、4月4日に10位にランクインした。1983年に実業家と結婚したことを機に芸能界を引退、3児の母となる(女優の尾身美詞は実娘である)。芸能界引退後は表舞台に出ていなかったが、2011年4月にスーの葬儀に出席、28年ぶりに公の場へ姿を現した。
年表
1972年(昭和47年)4月:NHK『歌謡グランドショー』のマスコットガール兼アシスタント(椅子・マイク運び・代理音合わせ)として「キャンディーズ」誕生。
1972年(昭和47年)12月31日:『第23回NHK紅白歌合戦』の冒頭で、多数のスクールメイツメンバーとは別の色の衣装を着て舞台中央で踊る[11]。また橋幸夫が歌唱した『子連れ狼』でバックコーラスを務めた(出場歴に数えず)。出場者入場時に画面に流れたテロップに、「スクールメイツ」とならんで「キャンディーズ」とクレジットされていた。
1973年(昭和48年)4月7日:TBS『8時だョ!全員集合』のアシスタントとしてレギュラー出演。
1973年9月1日:「あなたに夢中」でレコードデビュー(当時のメインボーカル・センター位置はスー(田中好子)が担当)。
1974年(昭和49年)3月:広島ナタリーでCM初出演[12]。
1974年(昭和49年)3月17日:代々木・山野ホールで初コンサート(800人)。
1975年(昭和50年)2月21日:シングル「年下の男の子」リリース・初の大ヒットでオリコン9位を記録(メインボーカル・センター位置を同曲以降スー(田中好子)からラン(伊藤蘭)に交代)。
1975年10月19日:『キャンディーズ10000人カーニバル』開催(蔵前国技館 / 8600人)。
1975年12月31日:「年下の男の子」で第26回NHK紅白歌合戦初出場。
1976年(昭和51年)3月1日:シングル「春一番」リリース・オリコン3位を記録
1976年10月11日:『キャンディーズ10000人カーニバル Vol.2』開催(蔵前国技館 / 13500人)。
1976年12月31日:「春一番」で『第27回NHK紅白歌合戦』出場(通算2回目)。