キャロル_(バンド)
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注釈[脚注の使い方]^ ジョニーの著書『キャロル 夜明け前』では、ジョニーは「誰がリーダーか取り決めはしてなかった。永ちゃんも、オレがリーダーだと自己主張することはなかった」「『リブ・ヤング!』に出演してプロとして契約する際に矢沢が交渉窓口として動いた時から、矢沢がリーダーだと認知された」[3]。「デビュー曲『ルイジアンナ』のレコーディング中に、コード進行の変更を提案したら、矢沢が『いいか、だれにもオレの曲はいじらせねえ。だれにもだ!』などと激怒し以降、自分も矢沢の機嫌をうかがい、気を遣わなければいけない立場になってしまった。他のメンバーも、矢沢の態度に大きなショックを受けた。この一件で矢沢のキャロルの中での立場が決定的なものになった」などと述べている[4]
^ 若かったキャロルのメンバーが成功の夢を語り合ったのが、ジョニーの母親が営む川崎スナック[28]。ジョニーをバンドに入れるため、ジョニーの母親に矢沢は「俺きっとでかくなるよ。ジョニーだって俺と同じ位才能あるし、ジョニーに金掴ませてみせるから!」と口説いたといわれる[29]。有名な「オレの夢は、ピッカピカのキャデラックに乗って、100メートル先のタバコ屋にハイライトを買いに行くことなんだ」は、当時から周りに吹いていた矢沢語録であった[30][31]。広島で苦労して育ち、「大金を掴んで社会に勝つんだ」と成功哲学を説く矢沢に対して、ジョニーは音楽が商売になるんてとても思えなかったという。何もないところから全部生み出すような強烈なエネルギー。「とても敵わないと思わせる強さが矢沢さんにはあった」とジョニーは話している[28]
^ ジョニーは著書『キャロル 夜明け前』で、これを思いついたのはキャロル結成の直前。「ハンブルク時代のビートルズは、彼らが貧しく無名で、ただ情熱だけでひたすら突っ走った時期であり、同時にバンドとして脱皮し、その真価を発揮した時期でもある。この時期の彼らが発する張り裂けんばかりのエネルギーは、革ジャンにリーゼントというスタイルによって、見事に体現されていた。これだ、と思った」と書いている[39]
^ 矢沢はキャロルのアマチュア時代には、他のメンバーにも自身のオリジナル曲を披露しようとしなかった。オリジナル曲を他のメンバーに聴かせたのはプロデビューが決まってからである。これはパクられるのを恐れたか、或いは実際には100曲はなく、ただのハッタリだったかは分からない。いずれにしろ、矢沢はこの頃から既に将来の成功戦略へプランを練っていたものと考えられる[42]
^ ジュニー自身も「俺は半端だった。結構慎重派だから、色々まとめてからという思いがあったが、知らない間にキャロルが爆発してしまった」「そしたらやっぱり永ちゃんのド根性の方が強いよ、そりゃ」など、矢沢の強力なリーダーシップに付いていくしかなかったという内容の話をしている[29]
^ 内田は「先生、僕らを男にして下さい」とキャロルから頼まれて、内田もそのつもりで根回しをやっていたら、ミッキーのプロデュースでレコード会社を決めたといわれ、もう一回ミーティングしたら「やっぱり先生とやらしていただきます」「わかった」となったが、また話が変わったので、オレが切れて「ナメんじゃねえ!」と矢沢をぶっ飛ばしたら、矢沢がパッと正座して「自分が悪いから、もう一発お願いします」と言ってきた、こいつはスターになると思ったと話している[59]。矢沢は嫌いじゃない。憎めないヤツと話す反面、吉田豪のインタビューでは、矢沢の批判ばかりしていたといい、現在も内田の話に矢沢がよく出てくるため、内田の矢沢への思いは、ジョニーの矢沢への思いと同様に愛憎半ばするものと考えられる[59][60][61]。矢沢の自伝『成りあがり』には内田の記述は全くない。いなかったことになっている。ジョニーの著書『キャロル 夜明け前」では、「内田の誘いはミッキーほど具体的でなかったらしい」と話し、矢沢とミッキー、内田との間にどのような話があったのか知らない様子である[56]
^ 通常2年程度の専属契約をキャロルは4年でフィリップス(日本フォノグラム)と結ばされていて、キャロルメンバーは最低の印税率だった。キャロルが売れれば売れるほどレコード会社とミッキーにプロデュース印税が増えていく仕組みだった。キャロル解散後もこの契約が残り、フォノグラムから千数百万の違約金を請求され、矢沢は単身、CBSソニーに行って移籍の契約をまとめ、CBSソニーから借金をしてキャッシュでフォノグラムに違約金を払った[64]。「日本フォノグラムは、アーティストとしてオレの気持ちを無視してきた」[65]。「オリジナルアルバムは三枚しかないのに、キャロルの承諾もなしに曲順を変えて、タイトルを変えて、ジャケットを変えて、さもニューアルバムのように見せかけて新しいアルバムを作ってきた。そんなイカサマ商売をしてきた。何度も『イメージが悪くなるからやめてくれ』と言っても『おまえらにいわれる筋合いはない』と無視してきた。オレは日本フォノグラムは絶対に許さない」[66]などと矢沢は述べている。ジョニーは「どういう戦術かは俺には分からないが、矢沢がミッキーを解雇した」「矢沢は、いいかジョニー。こういうヤツは切った方がいいんだとよく言ってた。いっつも俺は首ひねってたね」「地方で矢沢と和田アキ子が言い合ってたこともあった」などと話している[67]
^ 相原の落胆は酷く、これを聞かされたジョニー、内海は大人社会の冷淡さに耐え切れず、相原、ジョニー、内海の三人は新宿で一晩中飲み明かし、夜明けの路上で寝転がり、泣き、喚き、ヘドを吐いた[71]
^ この放送で無かった「涙のテディー・ボーイ」「やりきれない気持ち」を追加した物が後にビデオとレーザーディスクで発売[97]
^ 初の作詞曲は後に日本語に書き直したサードシングル「やりきれない気持ち」[137]
^ 1974年龍村仁監督の映画『キャロル』にATGとともに製作に携わる[149]
^ 1975年『ヤング・インパルス』(TVK)「ヒストリー・オブ・キャロル」での言及。
^ 龍村は『キャロル』プログラム・ブック「アートシアター」第110号(1974年6月22日発行)「映画『キャロル』演出ノート」、及び著書『キャロル闘争宣言』で、キャロルとの最初の衝撃を「はじめてキャロルを見て、全身の皮膚が一瞬に鳥肌だってくるのを覚えた。胸がドキドキしてじっと座っていられなくて、座席から立ち上がってウロウロした。体中に激しい怒りの感情がわきおこり手当たりしだいにブチ壊したい衝動に駆られた。恥ずかしいところだけど涙が出てきた。キャロルが去って、内田裕也が國学院応援団とともに登場したとき、私と同年輩の男・内田裕也の演奏を聞くにしのびない思いがして会場を出た」と記している[79][173]。「龍村は、キャロルよりずっと先輩の日本のロックンローラー内田裕也が、キャロルには(あるいは矢沢永吉には)なれないこと、なれなかったことを、瞬時に見てしまったのである、あるいは、そう直感させるものを、登場した瞬間にキャロルが示してしまったのである」と小野耕世は論じている[79]
^ ミッキーは「昔、オレ達がやってた時は、楽器ひけるヤツも少なかったし、英語はメチャクチャ、かっこばかりのロックン・ローラーだったけど、キャロルは違うんだ。曲は全部自分達で書くし、楽器はやるし、何といってもリズムのノリが違うよ。日本もここまできたのかと正直、驚いているんだ」と小野耕世に話していたという[79]

出典^ 阿部公輔 (2022年6月14日). “75年、アメ車の屋根でゴキゲンな「キャロル」時代の矢沢(前列右)。メンバーのジョニー大倉(同左)、ユウ岡崎、内海利勝(上)”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社). オリジナルの2022年6月13日時点におけるアーカイブ。
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