キャロル・キング
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[20][21] 二人は大学を辞め、昼間の仕事に就き、ゴフィンは化学助手、キングは秘書として働いていた[22]。夜には二人で一緒に曲を書いた[23]

高校時代にキングとデートしていたニール・セダカ[24]、1959年に「おお!キャロル」でヒットを飛ばした。ゴフィンはこの曲の替え歌として遊び心のあるアンサーソングOh!Neilを書いた。キングはその年にシングルとして録音してリリースした。B面には、ゴフィンーキング作のA Very Special Boyが収録されていた。[25][26] このシングルは成功しなかった[27]。黒人のガールズ・グループによる初のナンバー1ヒットとなるシュレルズビルボード・ホット100でのナンバー1ヒット「ウィル・ユー・ラヴ・ミー・トゥモロー」を書いた後[28]、ゴフィンとキングは、日中の仕事を辞めて曲作りに専念した[29][30]。「ウィル・ユー・ラヴ・ミー・トゥモロー」はスタンダードナンバーとなった[31][32]
1960年代

60年代には、キングが作曲しゴフィンが作詞をする形で、2人はさまざまなアーティストのために後々まで歌い継がれている数々の作品を書いた[33]。キングとゴフィンは、ドン・キルシュナーのディメンション・レコードの作曲チームでもあり、「チェインズ」(後にビートルズが録音)、夫妻のベビーシッターであるリトル・エヴァの「ロコモーション」、キングの最初のヒットとなる自身が1962年にレコーディングした「イット・マイト・アズ・ウェル・レイン・アンティル・セプテンバー」などを含む曲を生み出した[34]。この曲は全米チャート22位[35][36]全英シングルチャート3位を記録している。「…セプテンバー」をきっかけに何曲かのフォローアップシングルをレコーディングしたが、どれもあまり売れず、すでに散発的なレコーディング・キャリアは1966年までに完全に放棄された。

キングの初期の時代(1967年まで)のその他の曲にとしては、"Half Way To Paradise"[トニー・オーランド、イギリスではビリー・フューリーによってレコーディングされた]、ボビー・ヴィーの「浮気なあの娘 (Take Good Care of My Baby)」、ドリフターズの「アップ・オン・ザ・ルーフ (Up on the Roof)」、アール=ジーンの"I'm into Something Good"(後にハーマンズ・ハーミッツが録音)、シフォンズの「ワン・ファイン・デイ」、モンキーズの「プレザント・バレー・サンディ」(ニュージャージー州ウェストオレンジ郊外への移転に触発された)[37] そして、アレサ・フランクリンの「ナチュラル・ウーマン[38]が含まれている。二人はダスティ・スプリングフィールドによってレコーディングされた「ゴーイン・バック」や「サム・オヴ・ユア・ラヴィン」なども書いている。1960年から1963年にかけての3年間で、2人は延べ20曲あまりの全米トップ40ヒットを世に送り出している。

1968年までにゴフィンとキングは離婚し、接触しなくなっていた[20]。キングは2人の娘と一緒にロサンゼルスローレル・キャニオンに移り、将来の夫であるベースのチャールズ・ラーキー、ギターとボーカルのダニー・コーチマー、およびピアノとボーカルのキングで構成される音楽トリオザ・シティを結成してレコーディングキャリアを再開した[33][39][40]。ザ・シティは1968年に1枚のアルバム『夢語り』を製作したが、キングがライブ演奏を嫌がった影響で売り上げは伸びなかった[41]。配給業者が変わったことによりアルバムはすぐに廃盤となり、グループは1969年に解散した[42]。このアルバムは1980年代初頭にクラシック・ロックのラジオ局によって再発見され、シングルカットされた「スノークイーン」は数年間たまに放送された。クリーブランドのWMMSは、1981年から1985年まで数週間ごとに演奏し、絶版のLPは、音楽のエッジの効いたサウンドが好きなキャロル・キングのファンに求められた。
1970年代 - つづれおり

1970年代に入ってからはシンガーソングライターとしての活動に本腰を入れ、1970年にアルバム『ライター』で再びソロ・デビュー。翌1971年のソロ・アルバム『つづれおり』(Tapestry)は、全米アルバムチャートで15週連続1位、その後も302週連続でトップ100に留まるロングセラーとなり、グラミー賞でも4部門制覇、現在まで約2200万枚を売り上げている。先行シングル「イッツ・トゥー・レイト」は、全米シングルチャートで5週連続1位、年間チャートでは第3位を記録。ジェームス・テイラーが、収録曲「きみの友だち」をカバーし、シングルチャート1位を獲得している。その後も、アルバム『ミュージック』『喜びにつつまれて』、シングル「ジャズマン」など、順調にヒットを連発。1970年代前半から中期を代表するヒットメーカーの一人となり、2つの年代にわたって天下を取った。

また、『つづれおり』が大ヒット中の1972年には、五輪真弓のデビュー・アルバム『少女』の制作をサポート。その後、1974年までの3年間、五輪のアルバム3作品を手掛けたことでも知られている。

ローレル・キャニオンにいる間に、キングはジェームス・テイラージョニ・ミッチェル、そしてトニ・スターンと知り合った[17]。キングは1970年にルー・アドラーのオード・レーベル向けにテイラーのアコースティックギター演奏とバックボーカルを提供の受けた最初のソロアルバム『ライター』を製作した[43]。このアルバムはビルボードトップ200で84位に達した。同年、キングはB.B.キングのアルバム『インディアノーラ・ミシシッピ・シーズ』でキーボードを演奏した。

キングは『ライター』に続いて1971年に「ウィル・ユー・ラヴ・ミー・トゥモロー」と、再解釈した「ナチュラル・ウーマン」、それに新曲を収録した『つづれおり』をリリースした。アルバムは、テイラーの『マッド・スライド・スリム』と同時期に録音され、キング、ダニー・コーチマージョニ・ミッチェルを含むミュージシャンのセットが重複していた。どちらのアルバムにも「君の友だち」が収録されており、これはテイラーにとってナンバーワンのヒットとなった。キングは1972年のインタビューで、「ジェームズや、特に誰かを思い浮かべて書いたわけではないの。だけど、ジェームズはこの曲を聞いて本当に気に入って、録音したがったの」と述べている。[44]

つづれおり』はあっという間に成功した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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