キャベツ
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キャベツは淡色野菜の中では、カロテンビタミンCを多く含む野菜で、ビタミンC含有量は季節変動の影響をあまり受けず、夏場のホウレンソウよりも多い[9]。ただし、キャベツのビタミンCは加熱すると半減してしまう欠点がある[9]。また、調理の過程で千切りにして水にさらした場合では、ビタミンCの減少率は約20%程度である[9]。キャベツ特有成分として、胃腸粘膜の新陳代謝を活発にするビタミン様成分とされるビタミンU(キャベジン)が知られている[9]。ビタミンUは熱に弱く、加熱調理をすると減少する[9]。部位によってビタミンの含有量に差があり、外側の緑色が濃い部分はカロテンを多く含み、中心の芯の方にはビタミンCを多く含んでいる[9]
不快成分

キャベツを不快に感じる要素としては、苦味や、長時間火を通しすぎたときに感じる特有の臭いがある[10]

特有の臭いの元は硫黄を含む化合物で、主に硫化ジメチルという化学物質はキャベツの他、ブロッコリー、カリフラワー、オクラを加熱したときの風味となっている[11]。もう一つの硫化化合物のチオ酪酸メチルは、高濃度の匂い分析では、チーズニンニク、キャベツ臭と表現されるが、イチゴの匂いの基本成分にもなっている[11]。またカラシの風味がするイソチオシアン酸アリルも含まれている[12]。こうした成分も結球したキャベツ内でばらつきがあり、外葉には内側の若い葉に比べて、4倍の硫化ジメチルと5倍のイソチオシアン酸アリルが含まれている[12]

生のキャベツの苦味の元になっている成分は、グルコシノレートという有機化合物から生じている[13]。キャベツと近縁のアブラナ科アブラナ属の植物が、共通してこうした成分をつくっている[13][注釈 1]。人によってはキャベツの苦みを敏感に感じるが、反対にまったく感じない人もいる[13]。グルコシノレート化合物が空気に触れると、分解して他の化学物質を生成し、そのひとつのイソチオシアン酸アリルが、辛くてえぐみのある苦味と臭気を生じさせている[15]。イソチオシアン酸アリルには、真菌類やカビの成長を抑制し、キャベツをある種のうどんこ病から守る働きがある[14]
歴史
起源

キャベツの原種は、ブラッシカ・オレラセア(Brassica oleracea、和名:ヤセイカンラン)という野草で、これから都合の良い性質を残して結球するキャベツが作られた[16]。この原種は、ブロッコリーカリフラワーケール芽キャベツなどと同じ起源植物とされ、もともとヨーロッパ西部や南部の海岸地域原産の植物から生まれたものである[2]

世界最古の野菜のひとつといわれるキャベツは[17]、古代よりイベリア人が利用していた原種がケルト人に伝わり、ヨーロッパ中に広まったとされる。紀元前6世紀にヨーロッパに侵入したケルト人が野生キャベツの栽培をはじめ、当時は結球しないケールのような姿の野菜であった[2]。また野菜より薬草として用いられ、古代ギリシャ古代ローマでは胃腸の調子を整える健康食として食されていた。アテネのエウデモスが書いた『牧場論』に最初のキャベツの記述が見られる。初期の栽培品種にはブロッコリーのような茎があったが、ローマ時代に改良が進み、茎はなくなり大型化していった[18]。遺伝学や言語学の研究から、ブラッシカ・オレラセアを原種とするキャベツは、はじめギリシアとローマの庭師によって栽培が可能になり、その後古代ローマ軍とともにヨーロッパ全土に広がり、イギリスに渡ったといわれる[19]。結球したキャベツに言及した最初の記録は、博物学者の大プリニウスのものとされ、西暦77年の『プリニウスの博物誌』のなかで、キャベツを使った87種の薬をあげている[20]
野菜としての栽培キャベツの収穫(15世紀ごろ)

その後、9世紀頃に野菜としての栽培が広まった。現在日本で普及しているものは、12世紀から13世紀イタリアで品種改良されたものが起源とみられる。13世紀のイギリスでは、現在のような球結性のキャベツの記録が残されている[2]。13世紀から18世紀にかけて中世ヨーロッパでは、小作人など貧しい農民たちのあいだで自ら食べる分の食料として非課税対象であったキャベツを含む野菜が重宝され、穀物畑のすき間の空き地や農民の自家菜園で栽培された[21]。18世紀のイギリスでは、耐寒性があるキャベツは、穀物飼料が不足する冬場の家畜の餌として適していたため、冬期の飼料作物として本格的に栽培されるようになっていた[22]

15世紀末にクリストファー・コロンブスが新大陸に到達してからは、16世紀から17世紀にかけてヨーロッパからの入植者たちの手によってキャベツ栽培が始められ、新世界全域に定着した[23]。18世紀にアメリカ合衆国へ渡ると、より肉厚で柔らかく改良が進んだ。アメリカの先住民にとっても、交易をきっかけにキャベツ栽培が行われるようになった[24]。19世紀のヨーロッパの貧農民にとってキャベツは生活の糧として最後の頼みの綱といえる野菜であり続け、アメリカの多くの貧しい労働者階級の家庭でもジャガイモと並んで毎日食卓に上がる安価でありふれた野菜であった[25]19世紀末には、輸送手段が発達したことにより、遠隔地間のキャベツの売買が可能になった[26]。たとえばアメリカでは、夏は北部で生産したキャベツを南部に供給し、冬を越すころには南部産のキャベツが北部に送られた[26]
日本での普及

江戸時代前期にオランダ人によって長崎に伝来したが、主に観賞用に一部で栽培されたとみられている[2]貝原益軒1709年宝永6年)に出版した『大和本草』にはオランダナ(紅夷菘)として「葉は大きくて艶がなく白っぽい。花はダイコンに似る。おいしい。3年で花が咲き、カブの仲間である」と紹介されている。しかし食用として広まることはなく、むしろ観賞用としてハボタンを生むこととなった。

結球性のキャベツは幕末1850年代に伝わり、明治にかけて横浜周辺の根岸、子安、生麦などで居留地の外国人向けとして栽培された[27]が、一般の日本人が口にすることはなかった。

明治になると殖産興業の一環として栽培が奨励された[27]。1870年(明治2年)農学者の津田仙が築地外国人居留地の居住者むけに種を取り寄せた[27]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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