キャプテン・ビーフハート
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ヴァン・ヴリートは1941年1月15日、アメリカ合衆国カリフォルニア州グレンデールでヴリート家に生まれた。 出生名はドン・グレン・ヴリート(Don Glen Vliet)[11]

幼少期より美術工芸に才能を発揮し、地元のメディアに作品が取り上げられたこともあった。13歳の時には、16歳になってから3年間、ヨーロッパで美術工芸の勉強できる奨学金に合格したが、両親の反対などの理由で辞退した[12]

やがて一家はモハーヴェ砂漠の西端に位置するアンテロープ・バレーランカスターに転居し、彼はアンテロープ・バレー・ハイ・スクールに入学した[13]。1956年にサンディエゴから転校してきた同級生のフランク・ザッパと知り合った。彼等は、ザ・スパニエルズやジ・オーチッズ[14]などのドゥーワップ・グループ、ライトニン・スリムスリム・ハーポクラレンス・"ゲイトマウス"・ブラウンジョニー・"ギター"・ワトソンマディ・ウォーターズハウリン・ウルフなどのR&Bミュージシャンのレコード鑑賞を通じて親交を深めた[15]。そしてザッパがギター、ヴァン・ヴリートがボーカルを担当して録音するようになった。
ミュージシャンとしての活動詳細は「キャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンド」を参照

ハウリン・ウルフなどの影響下にある強烈な濁声を持ったブルース・シンガーとして頭角を現わす。1964年、キャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンドを結成。この頃、名字をヴリートからヴァン・ヴリートに変えた。キャプテン・ビーフハートというステージ名は、ザッパと共同で制作していた映画[16]に基づいて生まれた[注釈 1]

キャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンドは1965年にA&Mレコードと契約を結び[17]、プロデューサーにデヴィッド・ゲイツ[注釈 2]を迎えて、1966年4月にデビュー・シングル'Diddy Wah Diddy'[注釈 3]、同年6月に2作目のシングル'Moonchild'[注釈 4] を発表した[注釈 5]。彼等は1967年にブッダ・レコードから『セイフ・アズ・ミルク』でアルバム・デビュー。メンバーにはライ・クーダーがいた[注釈 6]。彼等は1968年ブルー・サム・レコードに移籍してセカンド・アルバムを制作したが、その発表を待たずにザッパが設立したストレイト・レコードに移籍した。まもなくブルー・サム・レコードからセカンド・アルバム『ストリクトリー・パーソナル』が発表されたが、ブルージーな『セイフ・アズ・ミルク』とは対照的に、サイケデリックな音響効果が加えられていた。これはブルー・サム・レコードの設立者でもあったプロデューサーのボブ・クラスナウが無断で行なったもので[18]、彼を激怒させた。

ヴァン・ヴリートはストレイト・レコードの自由な環境下で新曲を作り、キャプテン・ビーフハート・アンド・ヒズ・マジック・バンドは新メンバーを交えて集団生活を送りながら、半年以上をリハーサルに明け暮れた。ザッパをプロデューサーに迎えて1969年に発表した2枚組のサード・アルバム『トラウト・マスク・レプリカ』は、ブルースを基本としつつフリー・ジャズ民族音楽ポリリズム現代音楽の不協和音などの要素をふんだんに盛り込んだ作品で、当時の音楽シーンに衝撃を与えた。

1970年には、『トラウト・マスク・レプリカ』の延長線上にある次作『リック・マイ・デカルズ・オフ、ベイビー』を自分のプロデューシングで制作して、キャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンド名義で発表した。その後、メンバーの入れ替わりとレコード会社やマネージメントの変更が重なって混乱が生じ、彼は1974年に音楽活動を停止したが、1975年のザッパとの活動を契機にキャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドのライブ活動を再開し、1978年から1982年まで再び意欲的な作品を発表した。

これらの活動を通じて、1970年代のパンクポストパンクニュー・ウェイヴの世代に大きな影響を与えた[注釈 7][19]トム・ウェイツはキャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドから大きな影響を受けたのみならず、ヴァン・ヴリートが2010年に病没するまで彼との接触を保った数少ない人物の一人である[19]

音楽活動の末期にあたる1982年10月には、NBCの人気番組『レイト・ナイト・ウィズ・デヴィッド・レターマン』に単独出演した[20]

ソロ活動は少なく、ザッパやザ・チューブスとの活動程度だった。1969年にザッパの2作目のソロ・アルバム『ホット・ラッツ』に客演。キャプテン・ビーフハート・アンド・ザ・マジック・バンドが解散状態にあった1975年には、フランク・ザッパ・アンド・ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションの『ワン・サイズ・フィッツ・オール』に変名を用いて客演し、さらに彼等の国内ツアーに参加してライブ・アルバム『ボンゴ・フューリー』をザッパ/ビーフハート/マザーズの名義で発表した。ヴァン・ヴリートの音楽とザッパの音楽は明らかに異なり、極めて個性的な両者の人間関係は緊張を孕んでいた[21][22]
画家としての活動.mw-parser-output .asbox{position:relative;overflow:hidden}.mw-parser-output .asbox table{background:transparent}.mw-parser-output .asbox p{margin:0}.mw-parser-output .asbox p+p{margin-top:0.25em}.mw-parser-output .asbox{font-size:90%}.mw-parser-output .asbox-note{font-size:90%}.mw-parser-output .asbox .navbar{position:absolute;top:-0.90em;right:1em;display:none}

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