キプロス共和国(キプロスきょうわこく、ギリシア語: Κυπριακ? Δημοκρατ?α、トルコ語: K?br?s Cumhuriyeti)は、地中海東部に位置するキプロス島の大部分を占める共和制国家。首都はニコシア。EU加盟国。公用語はギリシア語およびトルコ語。
キプロス島の一部は、イギリス海外領土のアクロティリおよびデケリアであり、共和国領ではない。さらに1974年以来、南北に分断され、島の北部約37%を、国際的にはトルコのみが承認する「独立国家」であるトルコ系住民による北キプロス・トルコ共和国が占めている。一方のキプロス共和国は国際連合加盟国193か国のうち、192か国(トルコを除く)が国家承認している。
キプロスは元来はギリシャ系住民とトルコ系住民の混住する複合民族国家だったが、キプロス島分断後は、事実上ギリシャ系による単一民族国家となっている。 正式名称は、現代ギリシャ語で Κυπριακ? Δημοκρατ?α [cipria?ci dimokra?ti.a]
国名
公式の英語表記は、Republic of Cyprus(リパブリク・オヴ・サイプラス)。通称は、Cyprus [?sa?pr?s]。国民・形容詞の英語はCypriot [?sipri?t]。
日本語の表記は、キプロス共和国。通称は、ギリシャ語の発音のキプロス。日本の外務省は、かつて英語での発音にならい「サイプラス」とする表記を取っていた。
キプロスの語源は、古代ギリシャ語のイトスギ (kyparissos) 由来説と、同じく古代ギリシャ語の銅 (Chalkos) 由来説とがある。いずれもこの地に多かったもので、銅については、さらにこの地名(キプロス)が、ラテン語や英語で「銅」を意味する単語の語源となった。
1983年以来、北部のトルコ系住民支配地域は、「北キプロス・トルコ共和国」(Kuzey K?br?s Turk Cumhuriyeti; クゼイ・クブルス・テュルク・ジュムフーリエティ。より厳密に訳せば「北キプロス・トルコ系住民共和国」)として分離独立を宣言している。キプロス共和国はギリシャ系住民の支配地域のみを統治しており、キプロス共和国支配地域は北キプロスとの対比から、南キプロスやギリシャ系住民だけなので北キプロス風に南キプロス・ギリシャ共和国とも呼ばれることもある。
なお、北キプロスおよびその後援国であるトルコ共和国は、ギリシャ系・トルコ系両住民の連合国家であるキプロス共和国は既に1974年の南北分裂時に解体したのであり、南部のギリシャ系住民のみが不法にキプロス共和国を名乗り続けていると見なす立場から、キプロス共和国を承認せず、キプロス共和国支配地域のことを「南キプロス・ギリシャ系住民管理地域」(Guney K?br?s Rum Yonetimi; ギュネイ・クブルス・ルム・ヨネティミ)と称する。
歴史「キプロスの歴史」も参照
オリエント諸国支配時代パフォスの壁画(世界遺産。アフロディテの神話は、キプロスの地で生まれた)。
キプロスは東地中海を往来する諸民族、諸文明の中継地となったため、その歴史は古い。有史から当初はヒッタイト、アッシリアといったオリエント諸国の支配を受けた。
アッシリアの滅亡後暫くは独立状態にあったものの、エジプト第26王朝のアマシス2世(クネムイブラー・イアフメス2世)によって征服され、エジプトがアケメネス朝(ペルシア)に併合されたのとほぼ同時期にキプロスもペルシアの支配下に入った。住民の多くが入植してきたギリシア系であったため、再三に亘って反ペルシア暴動が生じたものの、ペルシアによって全て鎮圧された。
ローマ属州時代キュプルス属州の位置。
アレクサンドロス大王によるペルシア滅亡と大王死後のディアドコイ戦争での結果、キプロスはプトレマイオス朝の保護下に置かれ、プトレマイオス朝から総督が派遣された。この時期のキプロスは当時の2大商業都市であったアテネとアレキサンドリアの間の中間貿易港として発展した。
紀元前58年、共和政ローマから派遣された小カトによってキプロスはローマ属州(キュプルス属州)となった。クレオパトラ7世はマルクス・アントニウスと結んでキプロスの支配権を再び手に収めたが、アクティウムの海戦に敗北し、プトレマイオス朝の滅亡と共に再度ローマ属州へ復帰した。
紀元前22年以降は、元老院属州として位置づけられ、イタリア本国と東方属州を結ぶ交通の要衝として機能し、ハドリアヌスやルキウス・ウェルスなどのローマ皇帝もキプロスを訪れた。115年からのユダヤ人の一斉蜂起によりキプロスは損害を被った。4世紀以降にローマ帝国がキリスト教化する中でキプロスもキリスト教が徐々に普及、395年にローマ帝国が東西に分裂後は東ローマ帝国の管轄下となった。