キプロス
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1192年エルサレム王国の王位をモンフェラート侯コンラードに奪われたギー・ド・リュジニャンは、リチャード1世からキプロス島を譲渡され、以後300年間リュジニャン家がキプロス王位を継ぐことになる(キプロス王国)。1489年にリュジニャン家は王位継承者を欠いたことから断絶し、最後の王となったカテリーナ・コルネーロはキプロス王国をヴェネツィア共和国に譲渡した(ヴェネツィア領キプロス(ギリシア語版、英語版))。オスマン・ヴェネツィア戦争 (1570年 - 1573年)(英語版)では、1571年オスマン帝国がヴェネツィアからキプロスを奪い、キプロス州(トルコ語版、英語版)(オスマン領キプロス)を置いた。
近世・近代

エジプトの植民地化を進めていたイギリスはこの島の戦略的価値に目をつけ、1878年露土戦争後のベルリン会議でオスマン側に便宜を図った代償にキプロス島の統治権を獲得し、イギリス領キプロスが成立した。さらに1914年勃発した第一次世界大戦でオスマン帝国がイギリスと敵対すると、同年イギリスに一方的に併合された。そしてアメリカのキプロス鉱山会社がやってきた。

第二次世界大戦後、ギリシャ併合派、トルコ併合派による抗イギリス運動が高まったため、1960年にイギリスから独立。翌1961年イギリス連邦加盟。しかし1974年にギリシャ併合強硬派によるクーデターをきっかけにトルコ軍が軍事介入して北キプロスを占領し、さらにトルコ占領地域にトルコ系住民の大半、非占領地域にギリシャ系住民の大半が流入して民族的にも南北に分断された(詳しくは、キプロス紛争を参照)。

南北キプロスの間では国際連合の仲介により和平交渉が何度も行われ再統合が模索されているが、解決を見ていない(詳しくは、キプロス問題を参照)。

2004年EUに加盟。
キプロス問題キプロスの分断地図(青色部分は国連による緩衝地帯。緑色部分はイギリス軍主権基地領域)詳細は「キプロス紛争」を参照

キプロスは東ローマ帝国の支配下でギリシャ語を話す正教徒が大多数を占めるようになっていたが、オスマン帝国支配下で、トルコ語を話すムスリム(イスラム教徒)が流入し、トルコ系住民が全島人口の2割から3割程度を占めるまでになった。

イギリス統治下のキプロスではエーゲ海の島々と同じくギリシャに併合されるべきという要求(エノシス enosis)がギリシャ系住民の間で高まり、1948年にはギリシャの国王がキプロスはギリシャに併合されるべきとの声明を出し、1951年にはギリシャ系住民の97%がギリシャへの併合を希望していると報告された。一方のトルコ系住民の間ではキプロスを分割してギリシャとトルコにそれぞれ帰属させるべきとの主張(タクスィム taksim)がなされており、キプロスの帰属問題がイギリス、ギリシャ、トルコの3か国の間で協議された。その結果、中間案として1959年チューリッヒでキプロスの独立が3国間で合意された。

1960年、ギリシャ系独立派の穏健的な指導者であったキプロス正教会のマカリオス大主教を初代大統領としてキプロス共和国は独立を果たした。しかし、1963年には早くも民族紛争が勃発し、1964年3月より国際連合キプロス平和維持軍が派遣された。

さらに1974年7月15日ギリシャ軍事政権の支援を受けた併合強硬派がクーデター(英語版)を起こしてマカリオス大統領を追放。トルコはこれに敏感に反応し、トルコ系住民の保護を名目に7月20日キプロスに侵攻した。これにより7月22日にクーデター政権が崩壊するが、トルコ軍はキプロス分割問題の解決をはかって8月13日に第二次派兵を敢行し、首都ニコシア以北のキプロス北部を占領した。トルコの支持を得たトルコ系住民は翌年、キプロス共和国政府から分離してキプロス連邦トルコ人共和国を発足させ、政権に復帰したマカリオスの支配するギリシャ系の共和国政府に対して、連邦制による再統合を要求した。

1970年代以来、南北大統領の直接交渉を含む再統合の模索が続けられているが、分割以前の体制への復帰を望むギリシャ系キプロス共和国と、あくまで連邦制を主張するトルコ系北キプロスとの主張の隔たりは大きく、再統合は果たされてこなかった。1997年にキプロス共和国がEU加盟候補国となったことは、国際的に孤立し経済的に苦しい北キプロスにとっては大きな危機であったが、その後の国連の仲介案を得た統合交渉も不調に終わった。

2004年5月1日のキプロスのEU加盟を前に、北キプロスが政治的経済的に取り残されることを避けるため、同年2月9日より国連のコフィー・アナン事務総長の仲介で再び南北大統領による統合交渉が行われ、3月31日の交渉期限直前に国連案(アナン・プラン)に基づく住民投票案が合意された。しかし、4月24日に行われた南北同時住民投票はギリシャ系の南側の反対多数という結果に終わり、EUへの参加による国際社会への復帰を望むトルコ系側の賛成多数にもかかわらず否決された。これは、国連案がトルコ系住民側およびトルコ共和国が主張してきた連邦制を前提とし、ギリシャ系難民の北部帰還を制限、またトルコ軍の駐留を期限付き(最低7年間)ながら認めるなど、ギリシャ系住民側にとって容易に受け入れがたい内容を含んでいたためである。南のキプロス共和国では2004年、2006年の総選挙でいずれも統合反対派が勝利し、以降の統合交渉は停滞した。

一方、失敗に終わったものの統合交渉に前向きな姿勢を示して国際社会での得点を稼いだトルコは、同年10月3日、長年望んでいたEU加盟交渉開始のテーブルにつくことになった。しかし依然としてトルコはキプロス共和国をキプロスの公式の政府として承認することを拒否しつづけ、トルコのEU加盟交渉における課題点となっており、2006年12月にはキプロス共和国の船舶・航空機のトルコ入港拒否問題が原因で加盟交渉が一部凍結された。


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