キプロス王国
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その際、リチャード王はキプロスに Richard of Canville ・ Robert of Thornham の2人の家臣を守備隊長として残していった[1]

リチャード守備隊長は、彼に反発したキプロス住民の財産を押収した。また、彼はキプロスの法律と伝統を維持する代わりに、その住民らに50%もの財産税を負担させた。そして住民らに顎髭を剃るよう命じた。(←彼らの慣習?) 守備隊らの圧政への不満を高めたキプロス住民は、イサキオスの親族らを擁して反乱を起こしたが、ロバート守備隊長によって鎮圧され、反乱の首謀者は処刑された。その際、リチャード守備隊長は、ロバート守備隊長が行った反乱の首謀者に対する勝手な処刑を非難した。キプロスの王位を主張する者をリチャード王の承認なしに処刑することは、イングランド王家に対する侮辱であるとみなしたからだ。イングランド統治下におけるキプロス島の歴史は Chronicle of Meaux Abbey に詳細に記されている。この Meaux Abbey の修道院長とロバート守備隊長が縁戚であったこともあり、内容はロバート守備隊長に依るものが多い[2]
テンプル騎士団統治時代
ギー&アルマリックによる統治時代

ギーはもともとフランス騎士で、十字軍としてエルサレムに赴いた。その後、十字軍国家であるエルサレム王国の王女シビーユ(在位1186年 - 1190年)と結婚し、後にシビーユがエルサレム女王に即位したため、その共同統治者となった。ところが、1187年イスラムの英雄サラーフッディーンハッティンの戦いで敗れ、エルサレムまで奪回されティールの港に追い詰められた。リチャード1世らの来援(第3回十字軍)は、エルサレム王国救援のために派遣されていた。

ティール港はヴェネツィアジェノヴァピサの商船が集まるレバント貿易(東方貿易)の重要港で、ティールを抑えているギーにはエルサレムを失ったとはいえ、莫大な関税収入があった(なお、この前後に女王シビーユは亡くなっていた)。ギーはサラーフッディーンに追い落とされればキプロスに逃げていくつもりだったのだろう。この島は後に十字軍国家にとって重要な後方供給基地となる。
エルサレム王国の末裔たち

1194年にギーが没すると、エルサレム王国はシビーユの異母妹に当たるイサベル1世(在位1192年 - 1205年)に継承された。一方キプロス島は、ギーの兄であるエメリー・ド・リュジニャンに継承された。エメリーは1197年にエルサレム女王イサベル1世と結婚し、女王の配偶者として、エルサレム王も兼ねた。1205年エメリーが没すると、キプロスはエルサレム王国から分離し、以後300年にわたってリュジニャン王朝が支配する。
イタリア海洋都市国家への依存

1291年に十字軍勢力の最後の拠点としてシリアに残されていたアッコン(アッカ)がマムルーク朝によって陥落すると、キプロスは最もシリアに近いキリスト教徒側の拠点という位置から、レバント貿易に従事する人々の間で重要性が高まった。この結果、キプロスを巡ってヴェネツィアジェノヴァの間で対立が深まり、1373年にはジェノヴァの艦隊が島の南西に位置するファマグスタを占領するという事件も生じた。

キプロスは東地中海における西欧最後の拠点として、アッコン陥落後もたびたび企図された十字軍遠征やイスラム勢力攻撃の基地となった。聖地騎士団、イタリア諸都市、西欧各国と組んだキプロス王国は、14世紀にはたびたび小アジアエジプトを襲っている(1344年スミルナ十字軍1365年アレクサンドリア十字軍など)。

一方キプロス王家は、後継者争いやマムルーク朝などのイスラム国家との抗争のために疲弊し、イタリア諸都市に深く依存するようになっていた。中でもヴェネツィア貴族のコルナーロ家との関係は厚く、その支援に対して度々特権を付与することが行われた。また1464年に王位に就いたジャック2世はその即位前に異母妹と王位を巡って争ったが、この時もヴェネツィアからの支援を受けてこれに勝利し、コルナーロ家の娘カタリーナを妻に迎えている。しかしジャック2世は後継者の男子を得て程なく病死し、ジャック3世となったその男子も夭折するとカタリーナが女王となり、その16年後の1489年に彼女はキプロスを自らの祖国であるヴェネツィアに譲り、ここにキプロス王国はその幕を閉じた(ヴェネツィア領キプロス(英語版)の成立)。
経済

リュジニャン朝キプロス王国の主要経済は農業であった。それと同時に、島は西ヨーロッパと中東とを結ぶ重要な主要交易拠点 "'entrepot"'としても活躍していた。交易拠点として栄えることで、キプロスの農作物( 最も重要な作物は砂糖であった。ほかにワイン、小麦、油、イナゴ豆など)は広く取り扱われるようになり、キプロスの農業はより輸出志向が強まっていった。それゆえ、キプロス王国はビザンチン時代には最も繁栄する国となり、王国の港ファマグスタや首都ニコシアは大いに発展し、今日まで伝わる多くの歴史的建造物がこの頃に建てられた。上記の2都市が繁栄する一方、ほかの諸都市は落ちぶれていった。しかし、リマソールパフォスキレニアといった都市は別の方向性で発展していった。特にリマソールでは、農作物の輸出都市として発展するとともに、キリスト教徒の聖地巡礼者の途中滞在地として栄えていった。上記のような経済発展により、西方(ジェノバプロヴァンスカタルーニャベネツィア)からも東方からも多くの移民者が訪れるようになった。この中でもラテン人移民には経済活動に従事する者が多く、商人・職人・船大工・船長・居酒屋の主人としてキプロスで活躍した。なのでキプロス経済で大きなシェアを誇ったとされている[3]

この時代、新しい産業がキプロスで注目され始めた。一つ目は窯業である。キプロスでは特有の窯業が発展し、アッコンが陥落する1291年までの間、中東の十字軍国家に対してよく輸出されていたという。また、13世紀後半から14世紀にかけて新しい様式の織物産業も発展した。ニコシアに建てられたニュータイプの染物工房によってサミテやキャムレットといった絹織物が西ヨーロッパ・中東に広まり、大いに取り扱われた。そしてファマグスタ港は造船業の中心地となった。また、このような産業の発達を聞きつけたペルジ家やバルジ家といったフィレンツェの銀行家たちもキプロスに集結した。産業の発達や農業の発展により、より多くの労働力が必要となったキプロスでは、奴隷の需要が高まり、ニコシアやファマグスタでは奴隷市も開催されるようになったという[3]
歴代君主

ギー・ド・リュジニャン (1192年 - 1194年) エルサレム王 (1186年 - 1190/92年)

エメリー・ド・リュジニャン (1194年 - 1205年) エルサレム王 (1198年 - 1205年)

ユーグ1世 (1205年 - 1218年)

アンリ1世 (1218年 - 1253年)

ユーグ2世(英語版)(1253年 - 1267年)

ユーグ3世(英語版) (1267年 - 1284年) エルサレム王 (1268年 - 1284年)

ジャン1世(英語版) (1284年 - 1285年) 

エルサレム王としてはジャン2世を称す。(1282年 - 1285年)

アンリ2世(英語版)(1285年 - 1324年) エルサレム王 (1285年 - 1324年)

ユーグ4世 (1324年 - 1359年)

ピエール1世 (1359年 - 1369年)

ピエール2世 (1369年 - 1382年)

ジャック1世 (1385年 - 1398年)

ジャニュ (1398年 - 1432年)

ジャン2世 (1432年 - 1458年)

シャルロット (1458年 - 1460年)

ジャック2世 (1460年 - 1473年)

ジャック3世 (1473年 - 1474年)

カタリーナ・コルナーロ (1474年 - 1489年)

系図

    リュジニャン家 

          

    ユーグ8世
リュジニャン領主

                          
                       
ユーグ エシーヴ
(ボードゥアン・ディブラン娘) エメリー・ド・リュジニャン イザベル1世
エルサレム女王 アンリ・ド・シャンパーニュ ギー・ド・リュジニャン シビーユ
エルサレム女王 アンティオキア公家 
       


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