キプチャク
[Wikipedia|▼Menu]
[10]

1068年、多数のポロヴェツ人がルーシの地に侵攻して来たため、キエフ大公イジャスラフ1世チェルニゴフ公スヴャトスラフ及びフセヴォロドらはレタ(アリタ)河畔に出陣し、夜半に兵を進めた。しかし、ポロヴェツに打ち負かされ、ルーシの諸公は逃走した[11]。11月1日、ポロヴェツは再びルーシの地に侵入し、チェルニゴフの近郊を攻めた。チェルニゴフにいたスヴャトスラフは僅かな親衛隊を集め、彼らに向かってスノフスクの方へ出陣した。ポロヴェツは進み来るスヴャトスラフの軍を見て、戦闘の準備を始めた。スヴャトスラフの軍は3千であるのに対し、ポロヴェツの軍は2万であったが、スヴャトスラフらは馬に乗って突撃し、ポロヴェツ軍を撃ち破った。ポロヴェツ人のある者はスノヴィ川で溺死し、ある者は捕虜にされた。[12]

1071年、ポロヴェツはロストヴェツおよびネアチンの近くを攻めた。[13]

1078年8月25日、スヴャトスラフの子オレーグ(ru)及びヴャチェスラフの子ボリス(ru)はポロヴェツをルーシの地に導いて、ポロヴェツと共にキエフ大公フセヴォロド1世を攻撃した。フセヴォロド1世はこれに対抗してソージ川に出陣した。ポロヴェツはルーシを打ち負かし、ジロスラフの子イヴァン、チューヂンの兄弟トゥーキ、ボレイその他多くを戦死させた。[14]

1079年、スヴャトスラフの子ロマンがポロヴェツを率いてヴォルイニにやって来た。フセヴォロド1世はペレヤスラヴリの近くに留まり、ポロヴェツと和を結んだ。ロマンはポロヴェツと共に引き返したが、8月2日にポロヴェツによって殺害された。[15]

1082年、ポロヴェツの侯オセニが死去する。[15]

1092年、ポロヴェツはペソーチェン,ペレヴォロカ,プリルークの3つの町を占領し、両側の多くの村々を攻めた。同じ年、ポロヴェツはロスチスラフの子ヴァシリコと共にリャフ人(ru)と戦う。[16]
トリポリの戦いとトルチェスク包囲

1093年、キエフ大公フセヴォロド1世が死去すると、ポロヴェツはルーシの地に来て、平和について談判すべく、新たなキエフ大公スヴァトポルク2世に使者を遣わした。スヴァトポルク2世は父祖伝来の親衛隊(ドルジーナ)と合議せず、トゥーロフから来た者らと相談し、ポロヴェツの使者たちを捕えて丸太小屋に押し込めた。ポロヴェツはこのことを聞くと侵攻を開始し、トルチェスクの町を包囲した。スヴァトポルク2世はポロヴェツが来たことを聞くなりポロヴェツの使者たちを釈放したが、ポロヴェツはルーシの地に沿って軍を進めた。スヴァトポルク2世は彼らに対抗すべく戦士たちを集め、キエフ大公スヴァトポルク2世,ペレヤスラヴリ公ヴラヂミル2世モノマフ及びロスチスラフはトリポリに向かって出発し、ストゥグナ川にやって来た。スヴァトポルク2世,ヴラヂミル2世モノマフ及びロスチスラフは川を越え、右側をスヴァトポルク2世、左側をヴラヂミル2世モノマフ、中央をロスチスラフが進んだ。トリポリを通り、土塁を過ぎるとポロヴェツ軍が待ち構えており、彼らの先頭に射手たちが立った。ルーシ軍は土塁と土塁の間に留まり、戦旗(スチャーグ)を押し立て、射手たちは土塁から出た。一方、ポロヴェツ軍は土塁に近づき、自らの旗を立て、第一にスヴァトポルク2世に対して攻撃を加え、彼の軍隊を撃ち破った。スヴァトポルク2世は堅固に踏みとどまっていたが、彼の家来たちが逃げ出したため、後からスヴァトポルク2世も逃げ出した。次いでポロヴェツはヴラヂミル2世モノマフを攻撃し、ヴラヂミル2世モノマフとロスチスラフを敗走させた[17]。ポロヴェツは自分らの勝利を見てルーシを攻めるべく進軍したが、ある者はトルチェスクに引き返してトルチェスクを包囲した。トルチェスクのトルク人は彼らに反抗し、町の中から堅固に戦い、多くの敵を倒した。ポロヴェツは攻撃を始め、水を奪い取った。すると町の人々は渇きと飢えのために困窮し始めた。トルク人の要請により、スヴァトポルク2世は彼らに食料を送ったが、戦士が多すぎるため、町まで届かなかった。ポロヴェツは町の周囲に9週間留まって2つに分かれた。一方は町の近くに残って包囲を続け、一方はキエフに向かい、キエフとヴイシゴロドの間で攻撃をおこなった[18]。7月23日、スヴァトポルク2世はジェエラニ川(ru)に出陣し、両軍は互いに攻撃し合った。しかし、キエフ軍は敗北して逃げ出し、多くの者が戦死した。戦死者はトリポリの戦いよりも一層多かった。スヴァトポルク2世は生き残った2人と共にキエフに帰り、ポロヴェツはトルチェスクに戻った[19]。ポロヴェツがトルチェスクの包囲に戻ると、町の人々も飢えのために遂に降伏した。ポロヴェツ人らはトルチェスクの町を取ると、そこに火を放ち、人々を分配して奴隷とした。

1094年、スヴァトポルク2世はポロヴェツと和を結び、ポロヴェツの侯トゥゴルトカンの娘を妻とした。この年、オレーグトムトロカーニからポロヴェツと共にチェルニゴフにやって来た。ヴラヂミル2世モノマフが町に籠城したため、オレーグは町に来て町のありとあらゆるものを焼き、修道院に火を放った。ヴラヂミル2世モノマフはオレーグと和を結び、町から出てペレヤスラヴリ公となり、オレーグはの町であるチェルニゴフに入った[20]
イトラリ汗の殺害

1095年、ペレヤスラヴリ公ヴラヂミル2世モノマフのもとへポロヴェツ人の汗(カン:王)イトラリとクイタンが和を結びに来た。イトラリはペレヤスラヴリの町に入り、クイタンは戦士たちと共に土塁と土塁の間に留まった。ヴラヂミル2世モノマフはクイタンに子のスヴャトスラフを人質として与え、イトラリは優秀な親衛隊と共に町の中に在った。この時、キエフのスヴァトポルク2世からヴラヂミル2世モノマフのもとへ使者のスラヴャークが何かの要件のためにやって来た。ラチポル(ru)の一族はヴラヂミル2世モノマフと共にイトラリの戦士たちを亡き者にしようと合議し始めた。ヴラヂミル2世モノマフはこれに反対したが、説得されて彼らの意見に従った。そしてその夜中、ヴラヂミル2世モノマフはスラヴャークにいる親衛隊とトルク人をつけて土塁と土塁の間に配備した。まず、スヴャトスラフを盗み出し、その後にクイタンを殺害し、彼の親衛隊を撃ち殺した。イトラリはその夜、親衛隊と共にラチポルの邸で眠っていて、クイタンの身に起こったことを知らなかった。その翌日、ラチポルは年少親衛隊(オトロク)たちに武器を与え、丸太小屋に火を焚くことを命じた。ヴラヂミル2世モノマフはイトラリの親衛隊を招き、彼らを小屋の中に閉じ込めると、小屋の上にのぼり、屋根に穴をあけた。ラチポルの子オリベグが弓を取り、矢をつがえてイトラリの心臓に射て、彼の親衛隊を全部殺した[21]。スヴァトポルク2世とヴラヂミル2世モノマフはオレーグに人を遣わし、彼らと共にポロヴェツ人攻撃に行くことを命じた。オレーグは彼らと共に行くことを約束して出発したが、彼らと同じ道をたどらず遠征に赴かなかった。スヴァトポルク2世とヴラヂミル2世モノマフはポロヴェツ人の天幕に向かって進み、天幕を占領し、家畜,ラクダおよび奴隷を捕えた後、オレーグに対して怒り始めた。スヴァトポルク2世とヴラヂミル2世モノマフは再びオレーグに人を遣わし、オレーグのもとにいるイトラリの子の殺害あるいは身柄の要求をした。しかし、オレーグは彼らに聴従しなかったため、彼らの間に敵意が生じた。この年、ポロヴェツ人がユリエフにやって来て、その近くに一年とどまった。スヴァトポルク2世は彼らを鎮定し、ロシ川のかなたに追いやった。ユリエフの人々は町を棄ててキエフに逃れてきたため、スヴァトポルク2世はヴィチチェフ(ru)の丘の上に町を建てることを命じ、それを自分の名にちなんで「スヴァトポルクの町(スヴャトポルチ)」と名付け、ユリエフの人々、またザサコフの人々及びその他の町から来た人々と共にそこに住まわせた。その後、ポロヴェツ人は無人となったユリエフの町を焼いた。[22]
ボニャークのポロヴェツ誘引「トルベジュ川の戦い (1096年)」も参照

1096年5月24日、ボニャークがポロヴェツ人を率いてキエフの近郊を破壊し、ペレストーヴォにおいて侯の邸を焼き払った。この時クリャがポロヴェツ人を率いてペレヤスラヴリの近郊を攻め、ウースチエを焼き払った。一方オレーグスタロドゥープから出て、スモレンスクに来たが、スモレンスクの人々が彼を受け入れなかったので、リャザニに向かい、スヴァトポルク2世とヴラヂミル2世モノマフは帰途に着いた。5月31日、スヴァトポルク2世の岳父トゥゴルトカンがペレヤスラヴリに来て、町の近くに留まると、ペレヤスラヴリの人々は町に籠城した。スヴァトポルク2世とヴラヂミル2世モノマフはドニェプル川の向こう岸に沿って兵を進め、ザループに来てそこで川を越えた。ポロヴェツ人は彼らに気付かなかった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:108 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef