キネトスコープ
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キネスコープ」とは異なります。
キネトスコープ(開けて内部構造を見せた状態)。木箱上部にのぞき穴が付いている。

キネトスコープ(: Kinetoscope)は、初期の映画鑑賞装置である。名称はギリシャ語の「kineto (運動)」と「scopos (見る)」を組み合わせたものである[1]。木箱内をのぞき込む形で映像を見る仕組みで、一度に1人しか見ることができなかった。キネトスコープは映写機ではないが、その後の映画の基本的技術を備えている。それは連続写真を記録したセルロイドのロール・フィルムを、光源の前でシャッターを切りながら高速移動させて動く映像を作り出したことと、パーフォレーション付きの35ミリフィルムを採用し、映画フィルムの標準を設定したことである。1888年アメリカの発明家トーマス・エジソンが最初のアイデアを考案し、助手のウィリアム・K・L・ディクソンが中心になって開発した。彼らはキネトスコープと同時に、映画用カメラのキネトグラフ(: Kinetograph)も開発しており、1891年8月に両方の特許を申請した。

1893年5月9日にブルックリン芸術科学協会でキネトスコープの最初の公開実演が行われ、1894年4月14日にニューヨークで一般興行が開始した。アメリカの映画文化の誕生に貢献したキネトスコープはヨーロッパでも公開されたが、エジソンがキネトスコープの国際特許を申請しなかったため、多数の模造品が作られた。日本では、1896年11月25日に神戸市の神港倶楽部で初めて一般公開された。やがてエジソンが経済的理由で開発しなかった映写機がキネトスコープに取って代わる存在となり、エジソンも1896年にヴァイタスコープを発売して映写機を導入した。1895年にはキネトスコープと蝋管蓄音機を結合したキネトフォンを開発し、映像と音を同期する試みを行った。
仕組み

キネトスコープは高さ4フィート(約1.2メートル)の木箱でできており、その上部に接眼レンズが付いたのぞき穴がある[2]。箱の内部には長さが約50フィート(約15メートル)[2][3]のフィルムが蛇腹状にたたみ込まれており、両端に配置された小さな滑車にかけられている[4]。フィルムの幅は約35ミリで、その両端に1フレームごとに4個ずつパーフォレーションが開けられている[5]。キネトスコープはコインを入れると、内蔵されている蓄電池で動くモーターにより作動した[4][6]

フィルムは箱内上部のスプロケットがパーフォレーションにかみ合うことで、レンズの下を一定速度で連続的に送られた。送られるフィルムの下には光源のランプがあり、フィルムとランプの間には狭いスリットの入った回転シャッターが付いていた[2][注 1]。各フレームがレンズの下を通過すると、フィルムの下から照らされるランプの光を回転シャッターが瞬間的に遮り、その明滅する一連のフレームは視覚の持続性(英語版)により動く映像として見ることができた[2]。しかし、今日までの映写機と同じ間欠的な駆動方式ではないため、映像が安定的に見れないという欠点があった[8]。フィルムの駆動速度は毎秒40フレーム(40fps[9][10]で、1つの作品の上映時間は約20秒ほどしかなかったが、フィルムはループ状になっており、同じ映像を何度も続けて見ることができた[4][11]
開発
初期のシリンダー式装置エジソンが開発初期に考案したシリンダー式キネトグラフでテスト撮影した『モンキーシャインズ』(1889年または1890年頃)のフィルムのシート。

1888年2月25日、連続写真の技法を開拓した写真家エドワード・マイブリッジが、ニュージャージー州オレンジ近郊でズープラキシスコープ(英語版)を用いた講演を行った。ズープラキシスコープは連続写真を元にした絵を描いたガラスの円盤を高速回転してスクリーンに投影し、静止画が一つの動きに見えるようにする装置である[12][13]。その2日後、マイブリッジはウェストオレンジにあるエジソンの研究所でエジソンと会談し、彼が発明したフォノグラフ蝋管式蓄音機)とズープラキシスコープを連結して、映像と音声を同期させることを提案したが、実現には至らなかった。映画史家のチャールズ・マッサー(英語版)によると、マイブリッジとの出会いが「エジソンにとって映画発明の最初のひらめきとなったかもしれない」という[12]。同年10月8日、エジソンはキネトスコープに関する最初の特許保護願[注 2]を提出した。エジソンはこの文書で、映像を記録する装置を「キネトグラフ」、再生する装置を「キネトスコープ」と名付けている[14]。保護願の原稿の冒頭には、以下の内容が記述されている。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}私はフォノグラフが耳に与えるのと同じことを目に与える装置を実験している。それは動いているものを記録し再現するものであり、安価で便利な形をとっている[15]

エジソンの最初のアイデアは、フォノグラフの技術的原理を応用したシリンダー式で、幅1/32インチ(約0.8ミリ)の写真をシリンダーに螺旋状に配置し、回転するシリンダーがレンズを通過する時にシャッターが開閉するカメラで撮影するというものだった[14]。ポジ画像用の不透明な素材またはネガ画像用のガラスで作られたシリンダーは、写真感光剤としてコロジオンが全体を覆うように塗布された[16]。撮影された一連の画像は顕微鏡のような鑑賞装置で覗いて見るという仕組みで、エジソンはフォノグラフの音を聞きながら動く映像を見ることができるとし、非常に大きいシリンダーを使えばスクリーンに映写することもできると考えていた。しかし、得られる画像は小さく、シリンダーの表面が曲面のため焦点もうまく合わないなどの問題が生じた。1889年2月、エジソンは平らな表面を持つシリンダーを導入した2度目の特許保護願を提出した[14]

同年6月、エジソン研究所の従業員ウィリアム・K・L・ディクソンが映画装置の開発に配属された[14]。ディクソンの助手にはチャールズ・A・ブラウンが就いた。エジソンは映画装置のアイデアを考案して実験を始めたが、その開発作業はディクソンを中心とするエジソン研究所の従業員によるチームで行われ、現代の研究家のほとんどはディクソンが開発の大きな貢献者としている[17]。マッサーは、エジソンの映画の発明はエジソンとディクスンの異なる資質が協力し合った結果であり、エジソンは最初のアイデアを発展させ、その基本原理に基づいてディクスンが改良を進めたとしている[14]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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