キッス
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ヘヴィメタル[5]

ショック・ロック[6]

活動期間1973年 - 2023年
レーベル

カサブランカ

マーキュリー

ロードランナー

ユニバーサル

公式サイトキッス公式サイト

メンバー

ポール・スタンレーボーカルギター

ジーン・シモンズ(ボーカル・ベース

エリック・シンガードラムス・ボーカル)

トミー・セイヤー(ギター・ボーカル)


旧メンバー

エース・フレーリー(ギター・ボーカル)

ピーター・クリス(ドラムス・ボーカル)

エリック・カー(ドラムス・ボーカル)

ヴィニー・ヴィンセント(ギター・ボーカル)

マーク・セント・ジョン(ギター・ボーカル)

ブルース・キューリック(ギター・ボーカル)

キッス(KISS)は、アメリカ合衆国ハードロックバンド。アメリカンハードロック草創期から活動する、同東海岸を代表する世界的グループとして知られる。早くからロック界にフェイスペイントを取り入れ、世界観をギミックしたメディアフランチャイズマーチャンダイズ)を展開するなど、版権ビジネスモデルの先駆けともなった。2014年ロックの殿堂』入り。
概要

1973年1月にアメリカで結成されたロックバンドで、白塗りの化粧(フェイスペイント)と奇抜な衣装でストレートなロックンロール、ハードロックを演奏する。巨大なロゴを中心にした大規模なステージセットで、当初より炎やパイロテクニクスを多用している。彼らのファンは、キッスアーミー(KISSARMY)と呼ばれる。

キャッチフレーズは、「You Wanted the Best!? You Got the Best! The Hottest Band in the World, KISS!!(最高を求めていただろう!? お前は手に入れた! 世界一熱いバンド、キッス!!)」であり、1975年のライヴから現在にかけて、オープニングアナウンスとして使用されている。

シングル、アルバムの売り上げは1億1000万枚にのぼる。
来歴
ウィキッド・レスター時代(1970年 - 1972年)

1970年、ニューヨーク、ミュージシャンとして契約を目指すジーン・シモンズの元に旧知のポール・スタンレーが加わって「ウィキッド・レスター(英語: WICKED LESTER)」という5人組ロックバンドが誕生する[注釈 1]。バンドはデビューを目指していたが、結局ウィキッド・レスター名義のライヴは2回しか行われなかった。

1972年にアルバムを1枚製作するも、契約する予定だった「エピック・レコード」に拒否され、お蔵入りとなる。バンドを脱退するメンバーも現れ、そのままの形でウィキッド・レスターを継続することが困難となる。

新しいバンドでよりストレートなハードロックへの路線変更を決意したシモンズとスタンレーは自らバンドを脱退、ローリング・ストーン誌に告知を出していたドラマーのピーター・クリスに連絡し、クリスが加入。しばらく3人でひたすら練習していたが、この頃から他のバンドとの差別化を図るために顔にメイクをしてみたりするようになる。
キッスへ改名 - メジャーデビュー(1973年 - 1974年)1974年のグループショット

シモンズとスタンレーの2人は、サウンド面を強化するためギタリスト募集のオーディションを行い、リードギタリストとしてエース・フレーリーが加入。1973年にスタンレーの発案によりバンド名を「キッス」に改名した。クリスが以前在籍していたバンド「リップス」からヒントを得たと言われている。現在に至る有名なバンドロゴはフレーリーがデザインし、スタンレーが手直しをして完成した。

1973年1月30日にキッスとして初めてのコンサートを行う。当初はただの白塗りだったメイクも、次第に現在の形に近づいていった。この年、レコード契約をつかむために懸命に活動しながら、その一環として伝手のあったエディ・クレイマープロデュースの元、デモ数曲をレコーディングする。努力が実り、バンドはTVプロデューサーをしていたビル・オーコインの目に止まり、マネージャーとして迎えた。オーコインの働きにより、メジャーデビュー契約先はワーナー・ブラザース傘下で当時無名の新会社だったカサブランカ・レコードに決定、意気込んでレコーディング作業が行われる。シモンズは、とあるサーカス団員から火吹きを教わり、コンサートにおけるパフォーマンスとして取り入れたが、同年の年末コンサートにて火吹きを失敗し、自らの髪を燃やしてしまい、新聞で「ベーシストは頭に火をつけて演奏」と報じられた[注釈 2]

1974年、アルバム『キッス・ファースト 地獄からの使者』でレコードデビュー。強烈なインパクトを与えるメンバー写真のジャケットこそ注目を受けたが、当初の人気は奮わなかった。キッスとして初のツアーを開始し、初めていくつかのTVに出演、あるライヴ番組ではシモンズの火吹きの他に、クリスはドラムセットを破壊・投げ落とし、スタンレーは現在も行われているギターを地面に叩き付け破壊する強烈なパフォーマンスを披露した。しかし同年発表された2作目のアルバム『地獄のさけび』も、鳴かず飛ばずの結果だった。
大ブレイクと黄金期(1975年 - 1979年)アリーナギグの告知ポスター (1975年)1975年のステージ

レコードセールスは思ったように伸びず悩んだキッスであるが、ライヴでは徐々に力を付け始め、1975年発売のアルバム『地獄への接吻』発表に合わせて大型ツアーであるDRESSED TO KILL TOURを行う。デトロイトのラジオ放送局は、アルバム収録の「激しい愛を」をシングルカットされていないにもかかわらず連日かけまくり当地での人気が爆発する。当時、小さな田舎町をツアーで回っていたメンバーは、デトロイトでの人気を知るや、それ以降のツアーを全てキャンセル、当地での単独コンサートを行うことを決定する。

そしてデトロイト・コボホールにおけるコンサートを収録したライヴアルバム『地獄の狂獣 キッス・ライヴ』が、2枚組というハンディがありながら全米チャート9位に入るヒットを記録し、一躍人気バンドとなる。日本では、これまでのオリジナルアルバムを一斉発売し、主要マーケットの一つとなった。

1976年ボブ・エズリンをプロデューサーに迎えて制作した『地獄の軍団』をリリース。同アルバムからのシングル『ベス』が大ヒット(全米7位)する。初の世界ツアーでもあるDESTROYER TOURは、前年のツアーをも凌駕する観客動員数を記録した。

同年、アルバム『地獄のロックファイアー』発売。同アルバムからのシングル「ハード・ラック・ウーマン」がヒットする。かつて、ボブ・シーガーの前座を担当していたキッスが立場を逆転し、ボブ・シーガーがキッスの前座をするという現象まで発生した。1977年のステージ

1977年、SNEAK ATTACK TOURと銘打った初来日ツアーを敢行。大阪厚生年金会館日本武道館などを超満員にする[注釈 3]初来日時のツアー・パンフレットには、演奏される曲目があらかじめ印刷されており、アンコールも含めて綿密に計算されたパッケージ・ショウであることがわかる。4月2日の日本武道館公演ではNHKによるビデオ撮影が行われ、後に「ヤング・ミュージック・ショウ」で放映され、社会的大人気を獲得した。

同年、アルバム『ラヴ・ガン』、『アライヴII』(1977年のライヴと5曲のスタジオ新録曲を収録)発売。『ラヴ・ガン』は予約で100万枚を突破し、オリジナルメンバーによる作品歴代最大の売上を記録する。『アライヴ2』からのシングルカットは、フレーリーが歌う「ロケット・ライド」がヒット。この頃になるとキッスは全米を代表するバンドとなり、彼らの血液を赤インクに混ぜたものを使用したコミックまで発行された。

日本においては1970年代後半を代表するバンドとしてエアロスミスクイーン、エンジェル(英語版)と共に「ミュージック・ライフ」誌などで特集が組まれ、大人気であったが、このころからバンド内部の衝突も起こりはじめた。


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