キックボクシング
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1971年(昭和46年)には日本テレビで中継していた協同プロモーションの賛同も得て、石原慎太郎がコミッショナーを務める第2の団体全日本キックボクシング協会が設立され、日本テレビの協同プロモーションと東京12チャンネルの岡村プロモーションによる「八階級全日本統一王者決定戦」を日本武道館で行うなど、日本キックボクシング協会と双璧をなす団体にまで成長した[4]

1969年には日本の大学で初の『日本大学キックボクシング同好会[注釈 1]』を同大学生であった山崎照朝が結成[2]。同好会は後に部へ昇格し、1972年10月には全日本学生キックボクシング連盟が発足され、山崎は同連盟の設立に尽力した[2]

1970年代に入ると、野口プロモーションは五木ひろしの興行による莫大な利権でナベプロホリプロとの賞レースに参入するなど世間を賑わせていた。その反面、もう一つの興行の柱であるキックボクシングは凋落の道を辿っていた。オイルショック後の大不況、日本テレビやTBSの放送打ち切り、沢村忠の休業(のち引退)で興行成績・人気はみるみる下降した。日本をあきらめ香港での試合出場に本腰を入れるも当地での事故発生で興行不能となる。日本のキックボクシング界は統合に向かって進んでいったが焼け石に水であった。
分裂期

1984年(昭和59年)に、日本のキックボクシングの7団体のうち4団体が解散し合同して日本キックボクシング連盟を設立。同年11月30日に、後楽園ホールで旗揚げを行う。1985年(昭和60年)に、日本キックボクシング連盟の元理事長で、六本木で「朋昌」という会社を営んでいた実業家の石川勝将が「マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟」を設立。石川は、同団体を追放された形でMA日本を設立した。1987年(昭和62年)7月に、マーシャルアーツ日本キックボクシング連盟に所属していたジムが同連盟を離脱し、全日本キックボクシング連盟を創設した。この際、ジムのみならず、認定していた5階級の現役王者全員が全日本キックに流出した。1996年平成8年)に入ると、全日本キックが完全に分裂し、当時同団体の理事長を務めていた藤田眞と所属していたジムの大半が離脱。ニュージャパンキックボクシング連盟(以降、NJKF)を結成。1997年(平成9年)10月に「オールジャパンエンタープライズ」が倒産したため、全日本キックボクシング連盟が解散。直後に、有力ジムにより同連盟が立ち上げられ、活動を再開した。1997年(平成9年)に全日本キック所属のジム「アクティブJ」が新団体のJ-NETWORK(以降、J-NET)を結成した。また、全日本キック傘下のジムとして主催興行を予定していた1997年(平成9年)12月21日をJ-NETの旗揚げ興行とし、その日に興行を行った。1998年(平成10年)6月14日に、八王子FSGを中心としたジムが記者会見を開き、彼らは全日本キックを離脱し、キック・ユニオン(K-U)を結成すること明らかにした。
K-1の登場

1990年代になりテレビ界とのコネクションをつけてフルコンタクト空手の大会を催していた石井和義が、キックボクシングの亜流ルール(肘打ちを禁止する欧州ムエタイルールをアレンジしたもの)で空手ボクシングムエタイなど、多くの立ち技系格闘技の選手を招き、テレビ局との共催で打撃系格闘技世界最強を決めると称する大会「K-1」を立ち上げ、人気を博す。肘打ちを禁じて流血する度合いを減らし、首相撲によるクリンチ状態になると早めにブレイクして膠着した試合を防いだ。見る側であるオーディエンスに配慮したルール制定と、派手な演出でブームを呼び起こした。
新団体の設立

2006年(平成18年)5月に、新日本キックボクシング協会所属の藤ジムが離脱を表明し、天空キックボクシング協会の設立を表明。元々は興行を開催する事務局だったが、藤ジム会長の加藤重夫の「団体として確立させないと、試合の意義がただのジム対抗戦となり、それでは選手にとって可哀想であることと、ファンにとっても、単に試合があっただけという一過性のままで終わらせるのは良くない」という理由により団体として設立させることを決め、加藤は協会の会長に就任した[5]。12月にアメリカ合衆国オクラホマ州に本部を置く全世界キックボクシング連盟(UKF)の日本進出の足がかりとして、UKFジャパンが設立。理事長には、かねてよりUKFと親交のあった羽田善彦が選ばれた[6]

2008年(平成20年)2月12日にタイ・バンコクで、山根千抄がWBCムエタイ会長のゴーヴィット・パックディーブーム(WBC副会長兼務)と、ジャパン・プロフェッショナル・ムエタイ・コミッション(以下、JPMC)が日本におけるWBCムエタイが認可する唯一の組織であるという調印を交わした。3月3日にJPMC設立(NPO法人申請中)のプレスリリースを公表し、JPMCが日本におけるWBCムエタイへの唯一の窓口とした。同年10月1日に、JPMCの正式名称を、「コミッション」から委員会を意味する「コミッティ」に改称。同時に、JPMCをWBCムエタイルールに基づくプロのムエタイ活動の窓口として組織を再構することを発表[7]

2009年(平成21年)6月13日に、東京都でJPMC、NJKF、MA日本が共同で記者会見を開き、「WBCムエタイルール日本統一王座決定トーナメント」の開催を発表[8]。7月中旬に全日本キックボクシング連盟代表の金田敏男が逮捕されたことにより、同団体が解散[9]9月23日、「WBCムエタイルール日本統一王座決定戦」において、フライ級・バンタム級・スーパーバンタム級・フェザー級の4階級で初代日本統一王者が誕生[10]

2010年(平成22年)1月23日M-1ムエタイチャレンジが中心となってジャパン・マーシャルアーツ・ディレクターズ(JMD)の発足を発表[11]世界プロムエタイ連盟(WPMF)の日本本部としてJMDがWPMFルールを管轄する。JMDにはムエタイの他、独自ルールのR.I.S.E.も参加していたが、2011年に離脱。その後、WBCムエタイを離脱したMA日本が加わった。

2016年(平成28年)11月22日、国内複数の団体と連携して統一を図る一般社団法人キックボクシング振興会の発足を発表[12]
世界のキックボクシング
ヨーロッパ

大山道場(後の極真会館)で修業したジョン・ブルミン1962年に帰国しオランダで「オオヤマ道場」を設立。空手と柔道を教え、オランダに空手が広まる。その後、大山道場師範代だった黒崎健時1966年に11ヶ月間オランダで指導し、キックボクシングの技術も伝えた。黒崎がキックボクシングに転向し設立した目白ジムで修行したヤン・プラスが母国のオランダに目白ジム・アムステルダムを設立。トム・ハーリックが設立したドージョー・チャクリキ、目白ジム・アムステルダムの創設メンバーの一人だったヨハン・ボスが設立したボスジムと共に「オランダ三大ジム」と称されている。
ヨーロッパ

サバット(Savate)の起源は明らかではないが、空手とは何の関係もないことは間違いない
アメリカ

1970年代、アメリカでは伝統派空手が普及しており、試合は寸止めでポイントを争う試合が一般的だったが、1970年1月17日に開催された空手大会ではスペシャルマッチとしてロサンゼルスで初めて、直接打撃する試合が行われた。選手はボクシングリングで上半身裸にボクシンググローブ着用、下半身は空手着という格好で、ジョー・ルイスが2ラウンドKO勝ちした[13]。ルイスが中心となり1974年プロ空手協会(PKA)を設立した。


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