キダ・タロー
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18歳の時、ピアノに転向した[12]。兄の遺品だったアコーディオンはボタンが8個しかないいわばおもちゃのようなもので、友人から借り受けたりしながら演奏を続けていたが、そのような環境下では練習もまともに行えないなど限界があった[10][12]。ところが本格的なアコーディオンを購入するとなると当時の価格で40万円にもなり、キダに手が届くものではなかった[10][11]。だが、同じ鍵盤楽器の[10] ピアノであれば、自身が所有していなくとも練習が可能だという理由で、ピアノに転向することになった。阿川佐和子との対談および関西学院同窓会東日本センター東京支部のインタビューでは、当時通学していた関西学院大学構内の各所にあるピアノで練習を行うことができたと[12]、『プロ論』でのインタビューではダンスホールに常設されていた[11]、と語っている。

キダが初めて作曲したのは、18歳[11] または19歳[9][12] の頃で、当時難波にあったキャバレー「パラマウント」の曲[11][12]。その唄を歌ったのは、当時のNo.1ホステスだった「双葉」さん(後のかしまし娘正司歌江)だった[* 3][9][12]
大学中退してプロピアニストへ

関西学院大学を中退し、プロピアニストに転向した[12]。20代の前半頃から「義則忠夫とキャスバオーケストラ」のピアニストとしてキャバレーなどで10年間活動した[10][12]

1964年4月、結婚[9]した。同年、『ふるさとのはなしをしよう』(歌は北原謙二)でレコードデビューした。
人気作曲家へ

本格的に作曲活動を開始したのは20代前半の頃で、キャスバオーケストラでも作曲を担当するようになった[1][10]。30歳頃を境に人気作曲家となる。

一時期は近畿の放送局が制作を手掛けるテレビ番組ラジオ番組のテーマ曲の多くを手がけ、資料によっては「総ナメ」ともいわれる[1]。キダによれば、音楽の用意を忘れていたらキダの所へいけ、キダならすぐに対応するだろう、という状況であったとのことである[1]

キダ本人によれば代表曲はテレビ番組に提供したものについては、『プロポーズ大作戦』、『ラブアタック![11]、『平成古寺巡礼』(本人によればキダらしくない楽曲であるという)など[5]CMソングについては『プロ論。』によれば、『出前一丁』『かに道楽[11]、zakzakによれば『兵衛向陽閣』、関東の『小山ゆうえんち[1]。本人によれば、初期の作品では『エールック』のものが印象に残っているとのことである[1]。その他歌謡曲として『ふるさとのはなしをしよう』を代表曲としている[5]

近畿地区での業績が知られるところであるが、前述の『小山ゆうえんち』の他、三原本店(仙台市、時計宝飾店)、マツオ北海道滝川市松尾ジンギスカン)など他地区からの仕事も行っていた。
晩年 - 死去

2024年5月14日午前6時13分、大阪府の自宅で死去した[3][13]。93歳没。訃報は翌15日に円広志が代表取締役を務める所属事務所「株式会社ワイドウィンドウズ」より発表された。

最晩年までメディア出演などの仕事を熟していたが、同年3月末から体調を崩して入院した。その後4月上旬に退院後は自宅で療養をしていた[13]が、体調は戻らず最期は妻が看取った。同年3月29日に収録し4月19日に放送されたABCテレビ『探偵!ナイトスクープ』が生前最後の出演となった[3][14]

作り上げた曲は1000曲以上とも2000曲とも[11]、3000曲とも5000曲とも言われるが[12]、本人は「そんなものは裏が取れる話ではなく、私の言いたい放題です」と話している[12]。2009年のインタビューでは、最近は5000曲と自称していると語る[11]。なお1990年の『探偵!ナイトスクープ』出演時には1000曲くらいとしており、日本で一流の作曲家と言われるには2000曲は必要、今から2000曲に達するのは無理であろうと語っていた[9]
人物

父親は兵庫県姫路市出身で母親は長野県出身[15]。関西地方だけでも大阪の他京都神戸など各地を転々として暮らしていたため、本人は「(自分は)むちゃくちゃな関西弁になってしまった」としていたことがある[15]。そのため、笑福亭松鶴のもとに出入りして正しい関西弁を学んでいたことがある[15]。そして、関西弁の独特な言い回しが東京など他地域では通用しないことを知って、関西弁のイントネーション標準語の言葉を使うという話し方を研究し、使うようになった。香川登枝緒はこのキダの話し方を「大阪弁の標準語」と呼んでいる[15]。キダ本人はこれについて「標準語というより丁寧語と思っている」という[15]

少年期の通信簿によれば、音楽の成績は良かったものの、教師の評価は「道楽者」。元同級生の藤岡琢也によれば、愛想が無くて皮肉っぽいことを言うイヤな奴だが、センスは感じていたとの評である[9]

人気作曲家となった経緯について、『プロ論。』でのインタビューによれば、朝日放送に歌番組の伴奏のために出入りしていた際、「CMスポットコンクール」という企画でCMとスポンサーを募集したのだが、その際に依頼が来るたびに担当プロデューサーがキダに依頼を回してくれたとしている[11]。阿川佐和子との対談では、単にプロデューサーの顔が広かったから、としている[12]

キダはバンドで編曲を担当していたこと、ピアノという音域の広い楽器を演奏していたため全体の流れを見回せていたなどと言ったことから、編曲については相当な経験があった[10][11]。そしてキダによれば、当時は分業制が確立しておらず、作曲家には編曲能力も要求されており、編曲者としての能力もあるキダに多く仕事が回ってきたとのことである[11]


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