キタイ_(地理的呼称)
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1601年イエズス会士マテオ・リッチ万暦帝からキリスト教教会建設の許可を得た後、中国を訪れるイエズス会士の数が増加し、中国の情報が現地を直接見聞した彼らを通してヨーロッパにもたらされるようになる[6]。マテオ・リッチは自身が訪れた「シナ」の地が、マルコ・ポーロらが記したカタイと同一の土地であると報告したが、カタイに対する認識はすぐには変化しなかった。ゴアのイエズス会では過去の旅行者地が訪れたカタイとマテオ・リッチの訪れた土地が同じ場所であるか議論が交わされ、真偽を確かめるためにベネディクト・デ・ゴエスが派遣された[2]1654年フランスニコラ・サンソンが作成した北アジアの地図、1664年にピエール・デュヴァルが作成した地図にもカタイ国が存在していたが、1669年にサンソンが作成した地図からはカタイ国が消え、朝鮮の北に「女真(Niuche)」が記された[7]パリで発行された1703年付のニコラ・ド・フェール(英語版)の地図では中国は南北に二分され、黄河沿岸部はカタイ地方、江南地方はマンジ地方と記され、地図上に実在しない「カタイ国」が現れる問題は解決される[8]

東トルキスタンでは中国、中国に存在する国家を指す言葉としては「チーン(Ch?n)」の方が通用し、以降ウイグル族などのテュルク系民族はもっぱらヒターイ(Khit?i)を漢族満洲族を指す言葉として使用している[1]。中国においてヒターイは差別的な意味を含む言葉と見なされ、公式には採用されていない[1]

ロシア語ソビエト連邦圏に含まれる地域で使われるテュルク系の言語では、中国は「キタイ/クタイ(Китай)」と呼ばれる。英語では「キャセイ(Cathay)」となり、香港に拠点を置くキャセイパシフィック航空の社名はこの言葉に由来する[2]
脚注^ a b c d 新免「キタイ」『中央ユーラシアを知る事典』、159頁
^ a b c d e f 伊原、梅村『宋と中央ユーラシア』、341-343頁
^ a b c d e Wittfogel (1946), p. 1
^ 宮崎「マルコ・ポーロが残した亡霊」『東西交渉』、99-101頁
^ 宮崎「マルコ・ポーロが残した亡霊」『東西交渉』、100-102頁
^ 宮崎「マルコ・ポーロが残した亡霊」『東西交渉』、103頁
^ 宮崎「マルコ・ポーロが残した亡霊」『東西交渉』、104頁
^ 宮崎「マルコ・ポーロが残した亡霊」『東西交渉』、106-107頁

参考文献

伊原弘、梅村坦『宋と中央ユーラシア』(樺山紘一、礪波護、山内昌之編, 世界の歴史7巻,
中央公論社, 1997年6月)

新免康「キタイ」『中央ユーラシアを知る事典』収録(平凡社, 2005年4月)

宮崎市定「マルコ・ポーロが残した亡霊」『東西交渉』収録(宮崎市定全集19, 岩波書店, 1992年8月, 初出:『ビブリア』32号(1965年10月) )

翻訳元記事参考文献

Karl A. Wittfogel and Feng Chia-Sheng, History of Chinese Society: Liao (907?1125). in Transactions of American Philosophical Society (vol. 36, Part 1, 1946).


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