キスカ島撤退作戦
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作戦名は「ケ」号作戦であった(「ケ」は「乾坤一擲」を意味する)[5]
第一期作戦1943年6月、幌筵沖に停泊する特設潜水母艦平安丸伊号第171潜水艦

撤退作戦においては本来、ガダルカナル島撤収作戦のように駆逐艦などの高速、軽艦艇により夜陰に乗じて撤退を行うのが最も効率のよい方法であったが、水上艦隊による撤退作戦に日本海軍は消極的だった。最前線での輸送、撤退任務に駆逐艦を投入すればソロモン戦の二の舞となりかねず、またソロモン方面の戦いで海軍は駆逐艦のかなりの数を失っており、これ以上駆逐艦を損耗させることは避けたかったためである。そこで、潜水艦による守備隊への補給及び撤退作戦を立案してこれを実行した[1]

アッツ島玉砕前の5月21日、日本海軍と日本陸軍は陸海軍中央協定を結ぶ(大海指第246号)[10]。この中で「熱田島(アッツ島)守備部隊ハ好機潜水艦ニ依リ収容スルニ努ム」「鳴神島(キスカ島)守備部隊ハ成ルベク速ニ主トシテ潜水艦ニ依リ逐次撤収スルニ努ム 尚海霧ノ状況、敵情等ヲ見極メタル上状況ニ依リ輸送船、駆逐艦ヲ併用スルコトアリ」と指示した[10]。5月29日、連合艦隊司令長官古賀峯一大将は電令作第580号によって機動部隊の北方作戦参加をとりやめ、北方部隊と第二基地航空部隊(新編の第十二航空艦隊)により陸軍と協同し、「ケ」号作戦(キスカ島撤退作戦)を開始するよう下令した[10]。この中で第19潜水隊と伊155号潜水艦を北方部隊の指揮下に入れた[10]

5月30日、北方部隊指揮官(第五艦隊司令長官)は機密北方部隊命令作第12号により、「ケ」号作戦実施要領を発令した[10]。参加兵力は第一潜水戦隊(司令官:古宇田武郎少将)の潜水艦15隻であった[1]。特設潜水母艦平安丸座乗の古宇田司令官は5月27日(アッツ玉砕2日前)に横須賀を出発し、6月2日に幌筵へ進出、北方部隊潜水部隊の指揮を執った[10]。北方部隊潜水艦全15隻(第一潜水戦隊〈伊9、伊21、伊24〉、第7潜水隊〈伊2、伊7〉、第12潜水隊〈伊169、伊171、伊175〉、第19潜水隊〈伊156、伊157〉、伊31、伊34、伊35、伊36、伊155)のうち伊31潜水艦は消息不明であり(5月12日にキスカ輸送成功、帰路の5月14日にアッツ島近海で沈没)[11]、伊35は損傷のため呉に帰投したため、実際に参加した潜水艦は13隻である[12]

アッツ島玉砕2日前の5月27日、伊7潜水艦はキスカ港に入泊して60名を収容し、帰途についた[12]。「ケ」号作戦(キスカ島撤退作戦)は伊7の輸送をもって、事実上はじまった[12]。6月10日時点のキスカ島所在人員は、陸軍2,429名(うち軍属9名)、海軍3,210名(うち軍属1,160名)、合計5,639名(うち軍属1,169名)であった[12]。当初、潜水艦による撤退作戦は敵制空権下で苦労しつつ行われていたが、米軍駆逐艦やパトロール艇が哨戒活動を開始すると、レーダーに捕捉され霧中より砲撃される事例が出てきた[12]。6月11日には、伊24(6月13日キスカ到着予定)がPC487号により撃沈された[13]。6月15日(13日とも)、伊9(6月14日キスカ到着予定)は駆逐艦フレイジャー(英語版)によって撃沈された[14]。6月17日、潜水部隊指揮官(古宇田司令官)は北方部隊潜水部隊電令作第45号(17日2130)をもって、キスカ周辺で行動中の潜水艦に一時待機を命じた[12]。6月18日、潜水部隊指揮官は北方部隊潜水部隊電令作第49号(18日2325)により、伊7・伊169・伊36・伊34によるキスカ突入を命じた[12]。6月21日、第7潜水隊司令玉木留次郎大佐座乗の伊7潜は駆逐艦モナハンに捕捉されて損傷する(司令、潜水艦長戦死)[15]。応急修理に努めたが翌22日に再びモナハンに捕捉され、キスカ島南水道二子岩に擱座して放棄された[15][注釈 3](30日、爆破処理)[17]。6月22日、潜水部隊指揮官は北方部隊潜水部隊電令作第55号(21日1945)により、伊34・伊169・伊171の幌筵帰投と、伊36の自主判断を命じた(伊36も幌筵帰投)[12]。6月23日、北方部隊指揮官(第五艦隊司令長官)は潜水艦輸送作戦の中止を発令し、ここに第一期「ケ」号作戦は終わった[12]

第一期作戦成果(戦史叢書・潜水艦史より引用。括弧内は太平洋戦争海軍作戦第9巻による)[18]

撤収人員:海軍308名(299名)、陸軍58名(55名)、軍属506名(466名)、計872名(820名)

キスカ島揚陸物件:兵器弾薬125トン、糧食106トン、計231トン

上記のように潜水艦撤退輸送により、傷病兵等約800名が後送され、また弾薬125トン・糧食100トンの守備隊への輸送に成功した。しかしレーダーを始めとするアメリカ軍の哨戒網は厳重であり、この作戦により潜水艦は次々に損傷し、また3隻(伊7、伊9、伊24)を喪失した。潜水艦の損害は、昭和天皇を懸念させた[注釈 4]
第二期作戦
作戦準備

潜水艦による撤退作戦が不調に終わったために立案された水雷戦隊による撤退作戦ではあったが[2]、正面から堂々と作戦を行っていたのではキスカ島近辺で警戒任務に当たっているアメリカ艦隊との戦闘は避けられない。そこでこの地方特有の濃霧に紛れて高速でキスカ湾に突入、素早く守備隊を収容した後に離脱を図る、という計画が立てられた[8]。6月24日、北方部隊指揮官(第五艦隊司令長官)は、機密北方部隊命令作第15号により「ケ」号作戦第二期作戦の実施を下令した[2]。6月28日、軍隊区分等を発令した[2]

この作戦の成否を決める要素は2つあった。

視界ゼロに近い濃霧がキスカ島近辺に発生していること。

日本艦隊に電探及び逆探を装備した艦艇がいること。

まず第一の要素の天候であるがこれは濃霧が発生していれば空襲を受けずに済むからであった。キスカ島のすぐ東側のアムチトカ島には先述したようにアメリカ軍の航空基地があり、B-25などの爆撃機がいたために上空援護のない撤退部隊が空襲を受ければ全滅もあり得た。しかし、この当時濃霧の中で空襲をかけられる航空機は世界中どこを探してもなかった。このキスカ島の天候状況は撤収部隊の死命を制するといっていい。そこで第一次作戦に参加した潜水艦の中から数隻を抽出して撤収部隊に先行させてキスカ島近海に配備し、この地域の気象情報を通報させることとなった。

次に、日本艦隊には当時まだ巡洋艦・駆逐艦クラスで電探を装備した艦はほとんどなかった。第一期作戦での失敗も潜水艦が濃霧の中を浮上航行していたところを敵艦にレーダーで発見され、レーダー射撃を受けて撃沈されたり損傷したりしたためであった。第一の条件である濃霧は敵の空襲から日本艦隊を守ってはくれるが、同時に日本軍の長所である肉眼による見張り能力を奪う。これを補うために逆探と電探を必要としたのである。これに関しては実行部隊である第一水雷戦隊(一水戦)の司令官に着任したばかりの木村昌福少将から特に要望が出され、これを受けた連合艦隊は就役したばかりの新鋭高速駆逐艦島風を配備する。島風は就役当時から二二号電探と三式超短波受信機(逆探)を搭載しており、配備を聞いた実施部隊は大喜びであったという。また木曾艦長の提案により、仮に肉眼でアメリカ軍に発見されたとしても、アメリカ艦と誤認するように阿武隈、木曾の3本煙突の1本を白く塗りつぶして二本煙突に見えるようにしたり、駆逐艦に偽装煙突をつけたりと各艦とも偽装工作を万全にしての出撃であった。

さらに他の部隊から駆逐艦6?10隻の借用の要望が木村昌福少将から出され、第10駆逐隊などが掻き集められた[20]

視界ゼロの霧中でも単縦陣で艦隊行動が取れるように、各艦は霧中浮標を装備していた。これは艦尾よりワイヤーで浮標を曳航し後続艦が前続艦のそれを自艦艦首付近に寄せることで一定の距離を保つものだった[21]

一方で内地における燃料事情は逼迫しており、第二期作戦開始の時点で現地の第五艦隊は撤退作戦に使用できる重油が二回分しか確保できなかった[22]


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