ガールズケイリン
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^ 内訳は、本賞金700万円と副賞630万円。なお、副賞は2022年までは500万円であったが、2023年では630万円に増額された。また、2019年以降は副賞として冠スポンサーのオッズ・パーク社から500万円相当の新車(レクサス)が贈呈されている。
^ 2023年10月30日時点での実働選手168名[140]で算出すると1042万4342円となる。
^ 118期以降は、基本的に4月末から6月にかけては『競輪ルーキーシリーズ』(新人戦)に出走し、7月より先輩選手に混じって本格デビューを迎える。
^ 参考に競艇では、2022年における賞金女王は遠藤エミで8266万8200円。また、ガールズケイリンでは2022年にようやく誕生した3000万円プレイヤーは同年だけで14名おり、加えて同年の女子選手の賞金取得額上位20名は全員2700万円以上であった[144]
^ 女子選手の中には、競輪でいうGIに相当するスペシャルグレード(SG)(競艇)やスーパーグレード(SG)(オートレース)の決勝戦に男子選手に混じって進出する有力選手も稀に見られ[146][147]、特に競艇では2022年ボートレースクラシック遠藤エミが女子選手初のSG制覇を成し遂げた[148]
^ 新人選手が本格デビューとなる7月は、強豪選手が勢揃いする特別競走『ガールズケイリンフェスティバル』が開催されることから、特に中旬前後に開催されるガールズケイリンフェスティバル以外でのレースでは最上位選手の参加が少なくなるため、新人選手でも勝つチャンスは高まる。
^ 118期以降では、尾方真生永塚祐子が『競輪ルーキーシリーズ』デビュー場所で完全優勝を果たしている。
^ 但し、4R制ガールズ開催を中継する場合はBSよしもとでも放映される場合もある。
^ 2016年・2017年はTOKYO MXが東京ローカルで放送したため放送せず。2020年・2021年は放送せず。
^ 年度によりネットする放送局がある。2020年以降は放送自体を取り止めている。
^ 2024年も同様に放送される予定。
^ 2021年ガールズグランプリトライアル(28名出場)では小林優香、児玉碧衣、大久保花梨、尾方真生が出場し、さらに同年末のガールズグランプリ(7名出場)には小林優香、児玉碧衣、尾方真生の3名が出場権を獲得した[189]
^ デビュー直前に入籍したため、選手登録は当初から山本姓。
^ 男子では、齊藤努(旧姓、横田)などの例がある。
^ 男子でも、蓑田真璃と結婚した田頭寛之が、蓑田家に婿入りしたため蓑田姓に改姓した[202] が登録名は変更していない[203]という例もある。
^ 過去には、猪頭香緒里[204]遥山夕貴[205]がリミットの3年を超えて欠場した。
^ 正しくは「走行能力調査」という。1000m独走によるタイム計測で判定(合格タイムは非公表)。
^ 石井寛子三谷尚子のように、当初から師匠がいない選手も稀にいる。
^ a b 「リンカイ!Project」では『女子競輪』としており、ガールズケイリンの名称・ロゴは使用していない。
^ この頃は現在のような資格検定の制度はなかったため、各地区の自転車競技会と日本競輪選手会とでそれぞれ独自にプロテスト(実技と学科試験)を実施していた[96]
^ 競輪創設メンバーの一人。戦前から自転車競技大会の運営に携わった人物。
^ 男子は当初のA級・B級・C級からA級4班・B級4班の2層8班制となり[229]、のちA級5班・B級2班の2層7班制に再編され[230]、競輪プログラム改革構想(KPK)実施までこれが維持された。詳細は競輪プログラム改革構想を参照のこと。
^ 現在は全ての競輪場で賞金額が統一されているが、2014年度までは各競輪場ごとに前年度の車券の売上実績に基づいて賞金額が決められていたため、同じグレードのレースでも競輪場によって賞金額が異なっていた(ガールズケイリンでも2012年の開始当初は競輪場によって優勝賞金は10万円近く差があった)[240]。そのため、基本的に売上額が低い地方都市の競輪場はどうしても賞金額が低い傾向にあった。なお、競艇では現在もこの制度が採られている。
^ 昭和期の女子競輪における最終登録番号は1016番であり[228]、1000人強が選手として活躍したことになる。
^ 昭和期の女子競輪としては最後の募集となった1960年については、日本競輪選手会が発行する会報誌「プロ・サイクリスト」(1959年5月20日付)の記事において、応募総数は全国で27名、うち9名が以前に不合格となり再受験した者であったと記されている[227]
^ 『競輪四十年史』の別のページや『競輪三十年史』では229名との記述がある[228][243]
^ 正式には、1964年10月31日付「競輪審判員、選手および自転車登録規則第二〇条第一号」により選手登録消除[242]
^ 当日の招待者は、石村美千代、川崎喜登美(以上山口)、松川光子(香川)、庄司絹子(京都)、森耐子、奥野真弓、西村喜代香(以上大阪)、田中和子<家庭の都合で欠席>、松下五月、中西美和、東口節子(以上兵庫)、渋谷小夜子(神奈川)、加古政子(群馬)。この他、第12回優勝者の中村金子(熊本)は1964年に事故死したことが語られている(正しくは、1963年9月30日に行われた会津競輪場でのレース中における頭蓋底骨折による事故死)[244]
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