ガーフィールド大統領暗殺事件
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..今やアーサーが大統領だ!![20]」この言葉でチェスター・アーサーあるいはその支持者がギトーを使って犯罪を行わせたという根拠の無い憶測が短期間生まれた。ストールワーツとは前大統領のグラントに忠実な共和党の派閥だった。彼らはガーフィールドのハーフ・ブリード派に強く対抗していた。その頃の他の多くの副大統領と同様に、アーサーは政治的手腕や大統領への忠実さというよりも、その派閥を抑えるという政治的利点のために選ばれていた。ギトーはその妄想の中で、共和党の2つの派閥を統合するために一撃を加えるのだと確信していた。
ガーフィールドの苦闘と死

ガーフィールドは意識があったが、ショックを受けており、駅の上の階に運ばれた[21]。弾丸の1発は体内に留まっていたが、医者はそれを見つけられなかった[22]。息子のジェイムズとジェイムズ・ブレインは取り乱して泣いていた。ロバート・トッド・リンカーンは本当に動転しており、その父(エイブラハム・リンカーン)の死を思い出して、「この町ではどれだけ多くの時間を悲しみの中で過ごしたことか」と言った[22]

ガーフィールドはホワイトハウスに連れ戻された。医師たちは今夜は持たないだろうと告げたが、大統領は死ななかった。まだまだ意識がはっきりしていた[23]。翌朝、生命兆候は良好であり、医師たちは回復を期待し始めた。長い寝ずの番が始まり、ガーフィールドの医師たちは速報を定期的に発行し、アメリカの大衆は1881年の夏の間常に追い続けることになった[24][25]。その容態は不安定だった。熱が上がったり下がったりした。ガーフィールドは固形食を胃におさめておくように努力したが、その夏の大半はほとんど食べられず、流動食のみになった[26]治療を担当した医師の一人
ウィラード・ブリス ガーフィールドのシーツを取り替える様子

病人をワシントンの暑さから解放するために、海軍の技師がエア・コンディショナーを拵えた(近代的なエアコンの初期の装置のひとつである)。大きな箱に入った氷の上でファンを回して冷えた空気を病室に送った。この装置がうまく働いて、気温を20度F(11度C)下げることができた[27]。医師たちはガーフィールドの傷を消毒していない汚れた指や器具で探り続け、当てずっぽうで弾丸の場所を見つけ出そうとした。アレクサンダー・グラハム・ベルはガーフィールドの体内に留まっている弾丸を探すという特別の目的のために金属探知機を発明したが、ガーフィールドが寝ている金属枠のベッドのために誤反応を起こした[28]。金属のベッド枠はこの頃比較的稀なので、この装置の誤作動の原因は当時分からなかった。

7月29日、ガーフィールドは闘病中に唯一度閣僚達と面会した。閣僚達は医師から動揺させるようなことを議論してはならないと厳しく諭されていた[29]。ガーフィールドは感染症のためにその数週間で病状が悪化しており、その心臓を弱らせていた。熱と激痛のためにホワイトハウスで寝たきりになっていた。吐き気を抑えられず消化が苦痛になっていたので、200ポンド (90 kg)以上あった体重が135ポンド (60 kg)まで落ちていた[30]。敗血症と感染症が進行し、短期間幻覚を見るようになった[31]ガーフィールドの傷を検討する医師団

9月6日、ガーフィールドはワシントンの暑熱を逃れるためにニュージャージーの海岸に移されたが、これは新鮮な空気と静穏さが回復を助けるかもしれないという淡い期待からであった[31]。ガーフィールドは海岸や大西洋が見える窓の前にベッドの上で支えられていた[32]。新しい感染症が進行し、狭心症の痙攣が起こった。敗血症と気管支の肺炎に続いて、強い心筋梗塞あるいは脾動脈瘤破裂のために、1881年9月19日月曜日午後10時35分、ニュージャージー州ロングブランチのエルベロン(英語版)地区で死去した。49歳10か月。狙撃から死までの80日間で行った公務は、1通の犯罪者引渡し書に署名したことだけだった。レイクビュー墓地での葬儀

大半の歴史家や医学の専門家は、ガーフィールドを治療した医師たちがもっと有能であったら、ガーフィールドは生き残れたと信じている[33]。何人かの医師は消毒していない指を傷口に入れて弾丸を探り、ある医師などはそうしている時にガーフィールドの肝臓に穴を開けた。肝臓は人体の中で再生できる数少ない器官の一つなのでこのことだけが死をもたらしたとは言えない。しかし、この医師はおそらく連鎖球菌を大統領の体内に持ち込んでおり、それが当時は抗生物質が無かったために敗血症を引き起こした。

チェスター・アーサーは、19日の夜にガーフィールドが死んだという報せをニューヨークの自宅で受けた。最初にその報せを受けた後で、アーサーは、「私は、神よ、それが誤りだと期待している」と言った。しかし、電報による確認が直ぐに到着した。アーサーは、ニューヨーク最高裁判所判事の取り仕切りで、就任宣誓を行い、続いてワシントンに行く前に弔問のためにエルベロンに向かった[34]。ガーフィールドの遺体はワシントンに移され、議事堂ロタンダで2日間安置された後に、クリーブランドに移されて、9月26日に葬儀が行われた[35]ガーフィールド記念館にある廟
ギトーの裁判と処刑

ギトーは、常にその弁護団を悪く言うこと、長々と暗誦する叙事詩で証言を形作ること、および無作為に選んだ傍聴人からメモを渡されることで法的な助言をせがむことを含め、裁判の間のその奇抜な振る舞いにより、メディアお気に入りのようなものになった。彼は、ガーフィールドの殺人が神の意思であり、自分は神の意思を実行する道具に過ぎないので、自分は無罪と主張した[36]。裁判所で『ジョン・ブラウンの体』(南北戦争のときの北軍行進曲)を歌った[37]。「ニューヨーク・ヘラルド」紙に対して自叙伝を口述し、30歳以下のキリスト教徒淑女に対する個人的な宣伝で締めくくった。2回も暗殺されそうになった後でも、アメリカ大衆の怒りや憎しみに対してありがたいくらい気付かなかった。一つ的を射ていたのは、ガーフィールドがギトー自身ではなく、過誤医療によって殺されたと主張したことだった(「医師たちがガーフィールドを殺した。私は撃っただけだ」)。裁判の間からその処刑のときまで、ギトーはワシントンD.C.の南東隅にあるセントエリザベス病院に居住した。

ギトーの裁判は精神異常が検討されたことでは、アメリカ合衆国でも最初の目立ったものの一つになった[38]。ギトーは、狙撃したときは法的に狂気であったが、現実には医学的狂気ではないと主張し、それがギトーと弁護団の間の亀裂の大きな原因の一つとなり、また陪審員がギトーは単に責任を逃れようとしていると見なした理由でもあった。

つまるところ、ギトーは釈放が近づいていると考えた後は講演旅行を始め、1884年の大統領選挙には自ら出馬する計画を積極的に立てており、それと同時に裁判を取り巻く報道合戦を楽しみ続けた。陪審員が彼の神の啓示について納得できず、殺人罪で有罪としたときは落胆した。1882年1月25日に有罪が確定した[39]。ギトーは控訴したが、それも棄却され、1882年6月30日にワシントンD.C.で絞首刑になった。絞首台の上でギトーは自分で書いた「私は神の国に行く」と題した詩を朗誦した[40]。ギトーは当初その詩を歌うときにオーケストラの伴奏を要求したが、これは拒絶された。
その後議事堂側にあるガーフィールドの記念碑

ガーフィールドの暗殺は1883年1月16日のペンドルトン公務員改革法の成立に貢献した。ガーフィールド自身が就任演説で公務員改革を要求しており[41]、大統領としてそれがより効率的な政府を生むものと信じて支持した[42]


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