ガーナ王国
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バクリーは「クンビー・サレーはイスラムの町と6マイル離れた「王宮の町」で構成されている」と記述しているが、「王宮の町」については発見されていない。イスラムの町については、バクリーが記述するような集住的な石造りの建物が発見された。また北西部分には広大な墓地を伴い、アフリカでは初期の様式のモスクがあることが判明した。これらの建物は複数階の構造を持ち、地中海周辺で見られる様式のものであった。

出土した精製土器やガラス器は、北アフリカ・マグリブ地方から輸入されたものであった。クンビー・サレーの中央の通りとモスクから採取された有機物のサンプルから放射性炭素年代測定が行われ、13世紀初頭という値が得られ、11世紀後半(1076年)にモロッコのムラービト朝に滅ぼされてからも町自体は2世紀近く繁栄を続けていたことが判明した。

その後、セルジュ・ロベールによって、さらに下層の居住層の発掘調査が1975 - 76年に行われている。その調査成果は発表されていないが、予備調査の成果は、1972年に発表されている。この調査によって得られたサンプルで、6世紀から18世紀にわたる放射性炭素年代が得られており、現にクンビー・サレーがガーナ王国時代に繁栄していたことが証明された。
脚注^ おそらく kafu の王ないし首長

参考文献.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキメディア・コモンズには、ガーナ王国に関連するカテゴリがあります。

Oliver,Roland&Brian M.Fagan, Africa in the Iron Age -c.500B.C.to A.D.1400-, Cambridge University Press, 1975 (reprinted by 1999), ISBN 0-521-09900-5

グレアム=コナー著、近藤義郎・河合信和訳 『熱帯アフリカの都市化と国家形成』 河出書房新社、1993年。

(原著)Connah,Graham, African Civilization, Cambridge University Press, 1986, ISBN 4-309-22255-2


関連文献

私市正年『サハラが結ぶ南北交流』山川出版社〈世界史リブレット〉、2004年。 

宮本正興; 松田素二 編『改訂新版 新書アフリカ史』講談社〈講談社現代新書(Kindle版)〉、2018年。 

外部リンク

『ガーナ王国
』 - コトバンク


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