ガンデンポタン
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1959年チベット動乱の際、ダライ・ラマとともにインドに脱出、現在はインドにあるチベット亡命政府として十数万人からなるチベット難民組織の頂点に位置する。
概略

ガンデンポタンは、1642年以来の伝統を持つチベット国家の中央政府としての正式名称であり[1]、1959年以降は「チベット亡命政府 ??????????????????」という亡命政府としてのチベット名や、Central Tibetan Administration(CTA)(中央チベット行政府)という英語名も併用されるようになった。ただし、2011年5月、亡命チベット人憲章(2011年)の発効にともない、これまで使用されていた「亡命政府」の通称が「チベット人民機構 ????????????????????? 」と変更された。また、印字等に使われていた「チベット政府ガンデンポタン???????????????????????????????????????」の称号も、「真理に勝利あれ ???????????????????????????????」に改訂された。

ガンデンポタンという呼称は、この政府がポタラ宮殿(1660年完成)に移転するまで本拠を置いていたデプン寺の「兜率宮殿」に由来する。ワイリー拡張方式によるチベット語表記では、dga' ldan pho brang。チベット政府としての正式呼称は「ガンデンポタン・チョーレーナムギャル(dga' ldan pho brang phyogs las rnam rgyal, 諸方に勝利せるガンデンポタン)」。下記の「国章」にも、2頭の雪獅子の足下の赤帯の上に、ウメ体で「諸方に勝利せるチベット政府ガンデンポタン(bod gzhung dga' ldan pho brang phyogs las rnam rgyal)」と記されている。

チベット亡命政府は、選挙を行ってトップの首席大臣を選出するなど民主的な制度を持ち、数ある難民社会の中でも異色の存在感を持っているとされる[2]
歴史

ガンデンポタンの組織は、時期によって変化がみられ、その首班は次のように変遷した。
1642年 - 1720年 「ダライラマの財産管理や世俗業務の処理の担当者」という位置づけのデシーを首班とする。

1720年 - 1727年 カロンと称する大臣たちの合議制の時代。

1728年 - 1750年 ポラ家が世襲するジュンワン(郡王)を首班とする。

1750年 - 1959年 ダライラマ(または摂政)の下で、俗人3名、僧侶1名のカロンからなる「カシャク」(内閣)を指導部とする。

1959年 - 2013年 ダライラマ14世の下で、複数のカロンからなる「カシャク」(内閣)を指導部とする。

2013年 - 現在 ダライラマに属していた政治上の権限が民選の「シキョン(政治最高指導者)」に移譲され、ダライラマは「チベットとチベット人の守護者にして象徴」と位置づけられる。政府機構は、シキョンのもと、「カシャク」を指導部とする。

ガンデンポタンの組織機構の変遷は、次のように時期区分できる。
ダライラマの下にハンとデシーが並立(1642年 - 1706年)
ハンによるデシー打倒(1706年 - 1717年)

ジュンガル軍の占領下(1717年 - 1720年)


三閣僚(のち五閣僚)並立体制(1720年 - 1727年)

ジュンワン(郡王)政権(1727年 - 1750年)

カシャク制(1751年 - 2015年- )
4カロン制時期(1751年 - 1910年)

ダライラマ13世の近代化とその後(1910年 - 1951年)

中国支配下のカシャク制(1951年 - 1959年)


亡命政権時期(1959年 - )

発足

デプン寺ダライ・ラマ5世の財務監ソナムチュンペルがオイラトホショト部の指導者グシ・ハンと結び、グシ・ハンは1637年から1642年にかけてチベットの全域を平定、チベットの中枢部(ヤルンツァンポ河流域)がダライラマ領として寄進され、その統治機関としてガンデンポタンが発足した。1653年から1654年頃に編纂された法典には、チベットのハンと、ガンデンポタンの首班デシーが「ダライラマの下で『日月の一対』をなす」と描写されている。
近代以降「ラサ条約」および「チベット (1912-1950)」を参照

辛亥革命によって1912年に清国が滅亡し、その遺領の再配分が問題になった際、ガンデンポタンは、チベットの西南部(西蔵の部分)を実効支配し、チベット国家が中国とは別個の国家であることの確認や、清国の雍正帝に奪取されて以来、清国の隣接諸省に分属せしめられていたアムドカム東部の回復を目指して中華民国と対決した。ダライ・ラマ14世

1949年国共内戦に勝利して中国大陸を制覇した中国共産党政権は、「中国の領土を完成」させると称して人民解放軍を「西蔵」に侵攻させて全域を占拠、ガンデンポタンはこの軍事的圧力のもと、「十七か条協定」の締結を余儀なくされた。

この協定は、チベットと中国の当局者がチベットの地位に関して交わした取り決めとしては、吐蕃によって締結された822年講和・国境画定条約以来のもので、チベット国家の独立性とガンデンポタンによるチベット全土の統合を否定し、中国によるチベット併合を「祖国大家庭への復帰」と位置づけ、ガンデンポタンを「西蔵」部分のみの「地方政府」と位置づける内容を有し、1913年に「チベット・モンゴル相互承認条約」(蒙蔵条約)を締結して以来、歩調をそろえて中国からの圧力に対抗していたモンゴルとチベットの命運を決定的に分つものとなった。

1956年に勃発したチベット動乱においては、カムパたちを主として組織された抗中ゲリラとは一線を画し、ゲリラからの武器や兵糧の提供要求を拒み、十七か条協定で確保された自治の枠組みを維持することにつとめたが、果たせなかった。
チベット亡命政府の成立

チベット動乱が首都ラサに波及した1959年3月10日ダライラマ14世インドへ向けてノルブリンカ宮を脱出。国境の手前でチベット臨時政府の発足を宣言した後、インドに亡命した[3]。一方、中国側は、中華人民共和国国務院総理の周恩来が「西蔵地方政府の廃止」を宣言した。

同年4月29日インド北部の丘陵地ムスーリーで新たに行政機構が再組織され、チベット亡命政府(中央チベット行政府 Central Tibetan Administration〈CTA〉)が発足した。1960年5月、亡命政府はダラムサラのガンジョン・キショッと呼ばれる地域に拠点を移した。
ガンデンポタンの法規・組織
カシャク制時期(1751-1910)
法規

【固有法】

十三条法(刑法)

水晶の鏡(行政法)

【清朝制定の法】

欽定理藩院則例
(巻60,61)(行政法)

行政組織

ガンデンポタンは、従前より地方行政単位として、規模により大中小の3等級に分類されるゾン(rdzong)(清代の営、民国の県に相当)を設置、さらにその下方単位として国家直属・貴族領・寺院領の3種からなるシカ(gzhis ka)を置いた。ゾンは比較的人口の密集している地域に設置され、ガンデンポタンはその長官として1名または2名(2名の場合は僧1、俗1)のゾンプン(rdzong dpon)を任命して派遣した。

中華民国はゾンを「宗」、シカを「谿?(谿)」、ゾンプンを「宗本」、行政実務を担当するその属僚たちを「爾」(書記に相当)、居勒爾(財務担当)などの文字を用いて音写した。
ダライラマ13世の近代化(1913-1933)

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英領インドにおける亡命生活を終えチベットに帰還したダライ・ラマ13世は、国家体制の近代化に邁進する[4]
法規

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行政組織

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チキャプ(基巧、総督)

ダライラマ13世は、大宗或いは重要拠点にはチキャプ(???????????基巧、総督)を設置し、3宗から5宗の行政を監督させた。

ツァン・チキャプ(日喀則基巧、蔵区基巧):1914年設置。17宗を管轄

ドメー・チキャプ(多麦基巧、昌都基巧):1918年設置。23宗を管轄

チャン・チキャプ(霍爾基巧、絳曲基巧):1916年設置。14宗を管轄

ロカ・チキャプ(洛喀基巧、山南基巧):1909年に設置。30宗を管轄

タクコン・チキャプ(工布基巧、塔工基巧):1913年に設置。9宗を管轄

ギャンツェ・チキャプ(江孜基巧)

ドモ・チキャプ(卓木基巧、亜東基巧):卓木大宗のみを管轄。インドとの交易に関する徴税業務を担当

ド・ガルプン(ガリ・ガルプン、堆?本、阿里?本):11宗を管轄

下部行政区画

1949年(民国38年)の西蔵地方の下部行政区画は下記の通り[5]

拉薩直轄区(2宗、16谿)


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