ガンジー_(映画)
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

1962年、アッテンボローはモーティラル・コタリ(ロンドンのインド高等弁務官事務所の職員で、ガンディーの信奉者だった)から「ガンディーを題材にした映画の製作について語りたい」と連絡を受けた[7][8]。アッテンボローはルイス・フィッシャー(英語版)の著作『ガンジー』を読んだ後にコタリの提案を受け入れ、それ以降18年間の歳月をかけて映画化の企画を練った。彼は最後のインド総督ルイス・マウントバッテンとの縁を活用してネルーや彼の娘インディラ・ガンディーと面会して企画を進めていたが、1964年にネルーが死去したため製作は中断した。アッテンボローは完成した映画をコタリ、マウントバッテン、ネルーに捧げている。

デヴィッド・リーンサム・スピーゲルは『戦場にかける橋』の完成後にガンディーを題材にした映画の製作を企画しており、アレック・ギネスが主演を務めることが報じられていたが、『アラビアのロレンス』の製作が決まったことで企画は破棄された[9]。アッテンボローは1960年代後半に不本意ながらリーンに『ガンジー』の企画を持ちかけており、リーンは企画を引き受けてアッテンボローにガンディー役を演じるように提案した。その後、リーンは『ライアンの娘』の製作を進めるが、その間にコタリが死去したため『ガンジー』の製作は中断した[10]

1976年にワーナー・ブラザースの支援を得たアッテンボローは『ガンジー』の製作を再開しようと試みたが、インド首相になっていたインディラ・ガンディーが非常事態宣言(英語版)を発令したため撮影ができなくなってしまう。この事態に対し、共同プロデューサーのラーニー・ドゥーベはインディラを説得し、インド国立映画開発公社から1000万ドルの資金援助を得ることに成功した[11][12]。1980年にアッテンボローは製作に必要な残りの資金の調達に成功し、同年11月26日から1981年5月10日まで撮影が行われた。一部のシーンはビハール州のコイワーリー橋(英語版)で撮影されている[13]。ガンディーの葬儀シーンでは30万人以上のエキストラを動員し、「世界で最も多くの人員を動員した映画」としてギネス世界記録に登録された[14]

プリプロダクションの段階ではガンディー役の候補について様々な憶測が流れたが[15][16]、最終的にインド人の血を引く(父がグジャラート人(英語版))のベン・キングズレーが起用された[17]
公開

1982年11月30日にニューデリーで公開され、12月2日にはロンドンのオデオン・レスター・スクエア(英語版)でロイヤルプレミア上映が行われ[18]チャールズ3世(当時皇太子)とウェールズ公妃ダイアナが出席した[19][20]。12月8日からアメリカ合衆国で限定公開され、1983年1月から世界市場で順次公開された[2]。日本では同じコロンビアピクチャーズの『トッツィー』と同じ日に公開された。
評価
興行収入

北米の4劇場(ニューヨークのジーグフェルド劇場(英語版)、ワシントンD.C.のアップタウン劇場(英語版)、ロサンゼルスのセンチュリープラザ、トロントのヨーク劇場)では公開5日間で18万3583ドルの興行収入を記録したが[21]、これらの劇場では上映時間の関係で1日3回しか上映できなかった[22]。アメリカとカナダの最終興行収入は5276万7889ドルを記録し[2]、1982年公開の映画興行成績第12位になった[23]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:132 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef