ガロ_(雑誌)
[Wikipedia|▼Menu]
1993年には月刊『ガロ』創刊30周年記念作として、障害者プロレスのドキュメンタリー映画『無敵のハンディキャップ』(北島行徳原作)を製作。また、経営母体となるツァイトでも『ガロ』の漫画をPCゲーム化、1994年には青林堂とツァイトとの共同であがた森魚監督による映画『オートバイ少女』を製作するなど、メディアミックスを積極的に展開し、原稿料も幾らかは支払われるようになった。この時期の『ガロ』はページ数もさることながら、全体に対する文章の占める割合がかなり増え、サブカルチャー情報誌としての性格が強くなっていった。

なお、当時の「事件」として、1993年、当時雑誌『SPA!』に『ゴーマニズム宣言』を連載していた小林よしのりが、「ご成婚パレードでオープンカーに乗った皇太子妃雅子が“天皇制反対ーっ”と叫びながら、オープンカーから周囲に大量の爆弾を投げつける」という漫画を描き、『SPA!』に掲載拒否されて、『ガロ』に持ち込み掲載される、という出来事があった。
内部の軋轢、事業の失敗

順風満帆に見えた『ガロ』であったが、親会社のツァイトがPCソフトのプラットフォームがMS-DOSからWindowsへと変わる時代の変化に乗り遅れ、経営が徐々に悪化する。また1996年には創業者であり、長年『ガロ』の名物編集長で青林堂の顔でもあった長井が死去する。

その後、来るべきインターネット時代を先取りし、1997年当時としては画期的であったインターネットとコミックの融合雑誌『デジタルガロ』(編集長・白取千夏雄)刊行に着手する。だが編集部内では、インターネットを『ガロ』にはそぐわないものとする守旧派と白取ら推進派が対立し、その結果白取は『ガロ』副編集長のままツァイトへ移籍して『デジタルガロ』の編集にあたるという、変則的な事態を迎えることとなった。

この先見的な試みは、山中社長が強引に搬入部数を10万部まで増やしたため結果的に失敗(最終的な実売は15000 - 18000部)に終わり、大赤字を出すこととなった(ただし、白取は「ガロを立て直し、90年代に部数を3倍に伸ばし、法人としての株式会社青林堂を黒字で数億円の売上高に回復させたのは、他でもない山中さんの手腕だ」との証言をしている[8])。
内紛分裂事件、そして休刊へ

しばらくして山中が体調を崩したため、1997年、山中と旧知の仲であるコンピュータ業界の先輩・福井源が社長代行となったが、元々山中体制に不満を抱えていた手塚能理子(当時青林堂取締役)以下の社員が申し合わせ、事前連絡も無いまま保管してあった作家の原稿を持ち去り、FAXにてツァイト宛に同1997年7月7日付で、副編の手塚を筆頭に青林堂編集部員全員の辞表が送られ、一斉に集団退社するという事件が発生する[注 4][注 5][注 6]。同時に彼らはマスコミや取引先を通じ各方面へ「青林堂は版元として終わった」との声明を広く流布した。マスコミはその内容を詳細に検証する事なく報道を行なったため、青林堂と経営母体であるツァイトには大きな風評被害が及んだ。

退職した手塚能理子ら元青林堂編集部員達は長井勝一が生前に「何かあった時にこの名前を使え」と遺した「青林工芸舎」を社名とした新出版社「青林工藝舎」を青林堂の後継と称して立ち上げた。内紛騒動の顛末は、青林堂と青林工藝舎との間で訴訟継続中であったが和解で終了した旨が『ガロ』2002年2月号に掲載された。しかし、休刊騒動の取材を受けた元青林堂社員らは「当時のことは思い出したくもない」と取材を拒否しており、休刊騒動の真相をついに語ることはなかった。
休刊と復刊そして再び休刊

それがきっかけとなりツァイトは倒産し、『ガロ』は休刊に追い込まれた。その後、編集長に長戸雅之を招き、新社員を募集。1998年1月にいったん復刊したが1998年9月に『ガロ』は再び休刊した。

ツァイト社倒産後、青林堂の援助をしていた「大和堂」社長の蟹江幹彦が引き継いで社長となった。大和堂体制となった『ガロ』は2000年1月号より復刊するが2001年なかばより隔月刊、2002年には季刊となり、オンデマンド版(いわゆるネット上での通販)として販売形態を変更したが2002年10月発売の1号が刊行されただけに終わり、実質発行の無いまま現在に至っている。

その結果、正式な本誌としての『ガロ』は『漫画ガロ/2002年10月/秋号(通巻426号)』を以てして最終刊行号とされ、新刊としてはこれが最後のものとなった。
事実上の廃刊

予告されていた『ガロ』427号は現在まで刊行されず、事実上の廃刊状態となっているが、休廃刊の公式アナウンスはない。2010年9月30日に青林堂(大和堂)はiPad用の電子書籍アプリとして『ガロ Ver2.0』の販売を開始したが、わずか2号で廃刊となった。これは『ガロ』と関係のない同人誌系創作漫画のアンソロジーであり、近年の若者向けであった。

2010年代に入ると青林堂は保守系雑誌『ジャパニズム』を創刊。半世紀に渡ったサブカルチャーの専門出版から事実上撤退し、ガロ時代とは異なる雰囲気の出版社となっている。
元『ガロ』編集者による『アックス』詳細は「青林工藝舎」および「アックス (雑誌)」を参照

1997年に退社した手塚能理子ら元社員達は青林工藝舎を設立。旧ガロの漫画家や新人などによる雑誌『アックス』を隔月で刊行している。
略歴

1964年(昭和39年)7月24日 - 『月刊漫画ガロ』創刊。部数は8000部。白土三平が4号目より『カムイ伝』の連載開始。

1966年 - 『カムイ伝』が人気を呼び、発行部数が延びる(公称80000部、実数48000部)。

1967年 - (ライバル誌『COM』創刊)

1971年 - 『カムイ伝』連載終了。

1980年 - 次第に『ガロ』の人気が低迷するが、一方で有力新人を次々と発掘して行く。

1988年 - 読者投稿ページ『4コマ画廊(ガロ)』が開始、人気ページとなる。

1990年 - 青林堂からツァイトに経営譲渡。ツァイト社長の山中潤が青林堂社長に就任。

1992年 - 長井が1月号から編集・発行人を退き会長に就任。山中が編集長となる。

1993年 - 宮城県塩竈市で「ガロとマンガとマンガ文化」開催。

1994年 - 「月刊ガロ創刊30周年記念パーティー」。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:54 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef