1985年の再戦では、第一局からカスパロフが勝利[3]。カスパロフはアナトリー・カルポフを破り(当時の)史上最年少世界チャンピオンとなった[3]。その後15年間チャンピオンのタイトルを守り続けたのである[3]。
ディープ・ブルーとの対局詳細は「ディープ・ブルー対ガルリ・カスパロフ」を参照
カスパロフは史上最強の人間チェスプレーヤー、いわば「人類の代表」として選ばれ、IBMが開発したチェス専用コンピュータディープ・ブルーと対戦した人物の代表としても知られている。1989年にはディープ・ブルーの前身でカーネギーメロン大学が開発したディープ・ソートに2勝していた[5]。
1996年に対戦した際は、カスパロフが3勝1敗2引き分けで勝利した。「人類の頭脳は最強のコンピュータに勝利した」と報道された。
翌1997年にも対戦が行われた。結果は1勝2敗3引き分け。僅差であったが「コンピュータが世界王者のカスパロフに勝利した」と報道された。
カスパロフは再戦を望んだが、IBM側はプロジェクトを終了させてしまい、結局再戦は行われることはなかった。1996年と1997年を通しての戦績はほぼ互角であり、どちらが強いのかはっきりと判断できるものではなかった。だが「コンピュータがチェスの世界王者に勝利した」とニュースは流れ、大きな話題となった。 そもそも、カスパロフの師匠にあたる、チェス世界チャンピオンにして工学者のミハイル・ボトヴィニクがコンピュータチェスの推進者である[3]。カスパロフ自身もコンピュータチェスの黎明期から、局面分析にデータベースを利用していた。 2003年に行なわれた、ディープ・ジュニアとのマッチは1勝1敗4引き分け、X3D Fritz
カスパロフとコンピュータ
カスパロフは人間とコンピュータがペアを組み、そのペア同士が対局するアドバンスト・チェスという変則チェスも考案した。
上記のごとく、もともとコンピュータと縁があり、現役中はアタリ社がスポンサーに付いたこともある。さらに近年ではウォークラフトをプレイしていると著書で明かしている[3]。偶然だが、自分の弟子であるウラジーミル・クラムニクに勝利したディープ・フリッツの開発会社の立ち上げにも係わっていた。
2014年11月26日、ドワンゴはニコニコ動画で、カスパロフが将棋電王戦FINALの振り駒を行うと発表した[6]。カスパロフは電王戦の企画が初来日となった。振り駒の結果、五番勝負で人間(斎藤慎太郎五段)が第一局の先手に決まった[7]。また、11月28日に将棋の羽生善治[8]棋士・四冠とチェス対局を行うことも発表された[9]。先手、後手を入れ替える二番勝負で、結果はカスパロフが2連勝した[10][11]。 ダイナミックな展開を好み、終盤については序盤や中盤ほど得意ではないと、自らを分析している[3]。また攻撃的ではあるが、セコンドと協議するだけでなく、データベースソフトで相手の棋風をチェックするなど、準備に余念がなかった。体調面に関しても、運動選手のように食事管理なども受けるなど、当時としては先進的なトレーニング方法を実行していた。 カスパロフは1984年からソ連共産党党員でもあり、1987年にコムソモールの中央委員に選ばれたが、1990年に党を抜けた。チェス選手引退後は、政治活動の世界に身を投じ、ロシアの民主化を推進する政治家として活躍。反プーチン陣営の政治家として活動している。 2004年1月に「2008年委員会 - 自由選択」を共同で設立し、その委員会の議長になった。この委員会は自由主義のメディアの人々によるもので(政治家によるものではなく)、2008年に公正な大統領選挙を実現することを目的としていた[3]。 2004年12月に全ロシア市民会議 振り返ってみれば2004年、クレムリンの圧制に対抗していた勢力は悲惨な状況にあった[3]という。このゲーム(政治)では、対戦相手がルールを頻繁に、自分の有利になるように勝手に変更する[3]という。そのような予測不能で不公平な戦いでも、優れた戦略があれば努力しだいで望みは出てくるはず[3]と考え、戦略を練ったという。そうこうしているうちに、ふたつのことが明らかになったという[3]。ひとつは、プーチンの弾圧に反対する組織は存続を許されないこと、だという。ふたつめは、プーチン政権に対抗する勢力の連合を築く必要性だったという[3]。プーチンに反対する運動は小さなグループが乱立状態で統一的ではなかったという。共通の目的を見つける必要があり、共通点は、民主主義こそがロシア人を救う唯一の手段という認識だという[3]。
プレースタイル、トレーニング方法
政治活動