ガルリ・カスパロフ
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その次は驚くことに17局連続で引き分けとなった[3]。第27局でカスパロフが落とし5-0、22引き分けとなった[3]。やがて試合は3か月目に突入した[3]。若きカスパロフは第32局で初勝利し攻勢に転じた[3]。その後5週間にわたり引き分けが続いたが、カスパロフ側のほうが攻め調子であった[3]。世界中のチェスファンはこの試合に終わりがあるのか?と疑問を感じ始めていた[3]。大会運営側はさすがにプレーヤーに休息が必要だと判断し、試合中でありながらゲームが数日間休みになった[3]。これは異例の決定であった[3]。休み明けの第48局にカスパロフは勝利し5-3と迫り、明らかに勢いはカスパロフ側にあった[3]。この時国際チェス連盟(FIDE)のフロレンシオ・カンポマネス会長に対してソ連スポーツ省から圧力がかかり[3]、1985年2月15日、同会長は記者会見を開き、対戦を中止すると発表した[3]。試合は5か月に及んでいたにもかかわらず、結局勝者が無いままに終わりを迎えたのである[3]。6か月後に再戦と決められた[3]

1985年の再戦では、第一局からカスパロフが勝利[3]。カスパロフはアナトリー・カルポフを破り(当時の)史上最年少世界チャンピオンとなった[3]。その後15年間チャンピオンのタイトルを守り続けたのである[3]
ディープ・ブルーとの対局詳細は「ディープ・ブルー対ガルリ・カスパロフ」を参照

カスパロフは史上最強の人間チェスプレーヤー、いわば「人類の代表」として選ばれ、IBMが開発したチェス専用コンピュータディープ・ブルーと対戦した人物の代表としても知られている。1989年にはディープ・ブルーの前身でカーネギーメロン大学が開発したディープ・ソートに2勝していた[5]

1996年に対戦した際は、カスパロフが3勝1敗2引き分けで勝利した。「人類の頭脳は最強のコンピュータに勝利した」と報道された。

1997年にも対戦が行われた。結果は1勝2敗3引き分け。僅差であったが「コンピュータが世界王者のカスパロフに勝利した」と報道された。

カスパロフは再戦を望んだが、IBM側はプロジェクトを終了させてしまい、結局再戦は行われることはなかった。1996年と1997年を通しての戦績はほぼ互角であり、どちらが強いのかはっきりと判断できるものではなかった。だが「コンピュータがチェスの世界王者に勝利した」とニュースは流れ、大きな話題となった。
カスパロフとコンピュータ

そもそも、カスパロフの師匠にあたる、チェス世界チャンピオンにして工学者のミハイル・ボトヴィニクがコンピュータチェスの推進者である[3]。カスパロフ自身もコンピュータチェスの黎明期から、局面分析にデータベースを利用していた。

2003年に行なわれた、ディープ・ジュニアとのマッチは1勝1敗4引き分け、X3D Fritz(英語版)とのマッチでは1勝1敗2引き分けと、現役中はその時最強のチェスソフトとの公開対局を続けていた。

カスパロフは人間とコンピュータがペアを組み、そのペア同士が対局するアドバンスト・チェスという変則チェスも考案した。

上記のごとく、もともとコンピュータと縁があり、現役中はアタリ社がスポンサーに付いたこともある。さらに近年ではウォークラフトをプレイしていると著書で明かしている[3]。偶然だが、自分の弟子であるウラジーミル・クラムニクに勝利したディープ・フリッツの開発会社の立ち上げにも係わっていた。

2014年11月26日ドワンゴニコニコ動画で、カスパロフが将棋電王戦FINAL振り駒を行うと発表した[6]。カスパロフは電王戦の企画が初来日となった。振り駒の結果、五番勝負で人間(斎藤慎太郎五段)が第一局の先手に決まった[7]。また、11月28日に将棋の羽生善治[8]棋士・四冠とチェス対局を行うことも発表された[9]。先手、後手を入れ替える二番勝負で、結果はカスパロフが2連勝した[10][11]
プレースタイル、トレーニング方法

ダイナミックな展開を好み、終盤については序盤や中盤ほど得意ではないと、自らを分析している[3]。また攻撃的ではあるが、セコンドと協議するだけでなく、データベースソフトで相手の棋風をチェックするなど、準備に余念がなかった。体調面に関しても、運動選手のように食事管理なども受けるなど、当時としては先進的なトレーニング方法を実行していた。
政治活動

カスパロフは1984年からソ連共産党党員でもあり、1987年コムソモールの中央委員に選ばれたが、1990年に党を抜けた。チェス選手引退後は、政治活動の世界に身を投じ、ロシア民主化を推進する政治家として活躍。反プーチン陣営の政治家として活動している。

2004年1月に「2008年委員会 - 自由選択」を共同で設立し、その委員会の議長になった。この委員会は自由主義のメディアの人々によるもので(政治家によるものではなく)、2008年に公正な大統領選挙を実現することを目的としていた[3]

2004年12月に全ロシア市民会議が発足し、カスパロフはその共同議長に選ばれた[3]。プーチンに対抗するための団結の基盤として構想されたこの市民会議は、期待通りにはいかなかった[3]とカスパロフは語る。各勢力は以前からの内戦意識を捨てきれず、かつての敵と手を組むことができず溝が埋まらなかったという[3]

振り返ってみれば2004年、クレムリンの圧制に対抗していた勢力は悲惨な状況にあった[3]という。このゲーム(政治)では、対戦相手がルールを頻繁に、自分の有利になるように勝手に変更する[3]という。そのような予測不能で不公平な戦いでも、優れた戦略があれば努力しだいで望みは出てくるはず[3]と考え、戦略を練ったという。そうこうしているうちに、ふたつのことが明らかになったという[3]。ひとつは、プーチンの弾圧に反対する組織は存続を許されないこと、だという。ふたつめは、プーチン政権に対抗する勢力の連合を築く必要性だったという[3]。プーチンに反対する運動は小さなグループが乱立状態で統一的ではなかったという。共通の目的を見つける必要があり、共通点は、民主主義こそがロシア人を救う唯一の手段という認識だという[3]


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