ガリレオ・ガリレイ
最初は医学をピサ大学で学んだが[1]、ユークリッドやアルキメデスの本を読むうちに数学や力学へと関心が移った[1]。そのうち学資不足となり、大学を途中で去った[1] ものの、比重や重心の研究などで頭角を現し[1]、1589年?1591年にはピサ大学の数学講師[1]、1592年?1610年にはパドヴァ大学の数学(および天文学などの)教授として勤務[1]。物理学(自然学)分野では、「振り子の等時性」に関する研究や「斜面上をころがる物体の運動」に関する理論などを出発点として 1604年頃には落体(らくたい。鉛直方向に落下する物体)の運動法則の数学的定式化を完成させた[1]。自然現象に対して、数学的手法および思考実験を用いて迫り、(仮説を)実験によって検証するというガリレオの方法は[1]、(当時はまだ存在していなかった)「科学」の方法を新たに確立するのに大きく貢献するものであった[1]。天文学分野では、みずから改良したガリレオ式望遠鏡を使って木星の衛星、月面の凹凸(=クレーター)、太陽の黒点などを発見し、『星界の報告』(Sidereus Nuncius、1610年刊行)を著した[1]。1610年に「トスカナ大公付きの数学者」という(その地域では)名誉ある地位、1611年にはローマのアッカデーミア・デイ・リンチェイ会員となった[1]。主著の『天文対話』Dialogo sopra i due massimi sistemi del mondo, tolemaico e copernicano(1632年)や『新科学対話』Discorsi e dimostrazioni matematiche intorno a due nuove scienze attenenti alla meccanica(1638年)は、いずれも(イタリア人が実際に話している)イタリア語で書かれ、しかもいきいきとした対話形式で書かれた本であり、当時の「学術書というのはラテン語で書くもの」という学術的伝統の殻を打ち破って、自身の文学的才能も見せつつ、ガリレオ自身は「nuove scienze」(「新たな知(識)」)と呼んだ、現在の自然科学へと繋がる手法を創始した書である[1]。
名前トスカーナ地方では、長男の名前には「姓」を単数形にしてその名前とすることがある。ヴィンチェンツォ・ガリレイの第一子が「ガリレオ・ガリレイ」と名付けられたのも長男ゆえと考えられる[5]。イタリア語が分かる人にとっては、ガリレオの名は当時のヨーロッパの文化を反映した、キリスト教徒的な名前であり、「Galileo」は「ガリラヤの人(ガリラヤ人
)」という意味の言葉であり、複数形「Galilei」は「ガリラヤの人々」や「キリスト教徒(たち)」を指しうる。定冠詞を付けた単数形 「il Galileo 」はキリスト教徒にとっては、(ガリラヤ出身の人である)イエス・キリストを主に指す、婉曲表現である。イタリアでは特に偉大な人物を姓ではなく名(いわゆるファーストネーム)で呼ぶ習慣がある(ほかにも、ダンテ・アリギエーリ、レオナルド(ダ・ヴィンチ)、ミケランジェロ、ラファエロ、ナポレオン(イタリア系フランス人)など)ため、名を使って「ガリレオ」と呼称されることが多い。欧州ではオランダ、ドイツ、スカンジナビアではGalilei、フランスではGalileeとファミリーネームで呼ばれているが、ほとんどの国ではファーストネームで呼ばれている。ガリレオ・ガリレイの家系には同じ「ガリレオ・ガリレイ」という名の医師がいた[6]。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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