ガリポリの戦い(ガリポリのたたかい、英語: The Gallipoli Campaign、トルコ語: Canakkale Muharebeleri[7])は、第一次世界大戦中、連合軍が同盟国側のオスマン帝国の首都イスタンブール占領を目指し、エーゲ海からマルマラ海への入り口にあたるダーダネルス海峡の西側のガリポリ半島(現・トルコ領ゲリボル半島)に対して行った上陸作戦。ガリポリ半島とは英語名であり、現在トルコ語でゲリボル半島と呼ばれている。また、ガリポリ(ゲリボル)の町は半島の付け根にあり、主戦場から外れている。イギリスではこの戦いをダーダネルス戦役(英語版)と、トルコではチャナッカレの戦い(トルコ語: Canakkale Sava??)と呼ぶ。
当時国家として末期状態であったオスマン帝国軍を軽んじた連合軍は短期決戦を想定して挑んだ。しかし、のちに新生トルコ共和国の初代大統領に就任することになるオスマン帝国の名指揮官ムスタファ・ケマル・アタテュルクの活躍をはじめ、敵の予想外の頑強な抵抗に遭った連合軍は多大な損害を出して撤退、作戦は失敗に終わった。この戦いは陸・海・空三軍の総力を結集した大規模上陸作戦としては世界初と言える。また連合国軍に参加したオーストラリアとニュージーランドにとっては初の本格的な海外遠征となった。
背景1915年2月・3月のオスマン帝国軍の海峡防御。四角は主要砲台、青線は機雷線、点線は防潜網。
1914年に始まった第一次世界大戦はフランス、ベルギー方面の西部戦線で膠着状態に陥り、局面の打開が求められていた。またこの頃、連合国側に参戦していたロシア帝国は、カフカス方面から同盟国側のオスマン帝国に進軍したがオスマン軍の猛烈な反撃に直面し、連合国に支援を求めてきた。そこで、イギリスは海軍大臣ウィンストン・チャーチルの主唱でダーダネルス海峡西側のガリポリ半島を占領し、オスマン帝国の首都イスタンブールに進撃する計画が立案された。
イスタンブールを占領することができれば連合軍はボスポラス海峡を通じて黒海方面でロシア軍と連絡可能になり、またブルガリア、ギリシャなどバルカン諸国が連合国側になびくことも期待できた。そこでサー・イアン・ハミルトン将軍を司令官とする地中海遠征軍の派遣が決定された。
地中海遠征軍には英自治領オーストラリアとニュージーランドからの志願兵よりなるオーストラリア・ニュージーランド軍団(ANZAC)と英第29師団、イギリス海軍師団、フランス部隊が参加した。これに対し、オスマン側はドイツ帝国から招いたオットー・リーマン・フォン・ザンデルス中将を軍事顧問とする最精鋭の6個師団よりなる第5軍団が配置されていた。また、ダーダネルス海峡全域に大量の機雷を敷設した他、海峡の両岸に多数の砲台を設置して海峡そのものを要塞化していた(左上図)。 1915年2月19日と25日の二度にわたり英仏大艦隊による海上からの砲撃が行なわれたが、悪天候によって上陸部隊の到着が遅れたこともあり、ダーダネルス海峡の制圧はできなかった。3月18日に艦隊は海峡突破を試みたが、オスマン帝国機雷敷設艦ヌスレットが敷設した機雷に接触して動きが取れなくなった前弩級戦艦3隻(フランスのブーヴェ、イギリスのオーシャン、イレジスティブル)が触雷や両岸の砲台からの集中攻撃を受けて撃沈され、ほかに3隻が大破した。このため連合軍は海軍力だけでダーダネルス海峡を制圧することを断念せざるを得なかった。 連合軍の上陸作戦は1915年4月25日に開始された。ところが上陸作戦が開始される頃には、オスマン軍は上陸予想地点に兵力を増強し、堅固な陣地を構築して待ち構えていた。英第29師団はダーダネルス海峡北側のガリポリ半島先端のヘレス岬付近5箇所に上陸したが、オスマン軍の反撃に阻まれて2箇所では撤退し、3箇所の海岸を確保するに止まった。ANZAC軍はガリポリ半島北側のエーゲ海に面した名もない入り江に上陸作戦を敢行、オスマン第19師団の猛攻撃を受けながらも橋頭堡を確保した。この入江は今日では「アンザック入江」と呼ばれている。また英海軍師団とフランス軍部隊は海峡のアジア側に陽動作戦として上陸を試みた。 5月から7月にかけて連合軍、オスマン軍ともに何度も攻勢を展開して戦局を打開しようとしたが、どちらも敵側に阻まれ戦線が大きく動く事はなかった。5月には上陸部隊を支援していたイギリス前弩級戦艦3隻が魚雷攻撃によって相次いで(中旬にオスマン帝国駆逐艦ムアーヴェネティ・ミッリイェによりゴライアスが、下旬にドイツ潜水艦 U-21 によりトライアンフ及びマジェスティックが)撃沈されたため、海軍は戦線を離脱した。 8月に入ると連合軍新鋭2個師団がアンザック入江北側のスブラ湾に上陸し、攻勢を試みたが、オスマン軍がいち早く高地を占拠したため、ここでも橋頭堡を確保する以上の進展は見られず、塹壕戦となった。アンザック入江とスブラ湾の橋頭堡を連絡させようとする連合軍の最後の8月大攻勢も失敗に終わり、オスマン領内へのさらなる進撃は望めない状態となる。 10月に入るとイギリス政府はガリポリ作戦の撤退を検討し始め、撤退に反対する司令官のハミルトン将軍を解任、サー・チャールズ・モンロー将軍に交代させた。この月、これまで中立だったブルガリアが同盟国側に参戦することが明らかになったため、ドイツ軍は陸路でオスマン帝国との連絡が可能となり、連合国軍はドイツの超大型大砲でガリポリの橋頭堡が砲撃を受ける危険も出てきた。また10月5日にはギリシャ領サロニカに英軍が上陸して地中海方面で第二戦線が形成されたこともあり、モンロー将軍はついに撤退を決意した。
戦闘の経過
前哨戦
上陸作戦
戦線膠着雷撃により傾く戦艦マジェスティック
撤退撤退直前のヘレス岬Wビーチ