ガリシア州
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このブリトン人たちは、アングロ=サクソン人グレートブリテン島侵攻から逃れてやってきた人々である。8世紀にイスラム教徒に征服されたものの、実効支配は及ばないまま739年アストゥリアス王国アルフォンソ1世(ガリシア語ではアフォンソ1世、Afonso I)に奪い返された。以降レオン王国の一部となり、カスティーリャ王国に受け継がれた。1065年フェルナンド1世の死後に領土が分割され、ガリシアは一時的に別の王国となったが、すぐにアルフォンソ6世に統合された。

9世紀から、サンティアゴ・デ・コンポステーラサンティアゴの聖遺物が発見されサンティアゴ信仰が盛んになり、レコンキスタ運動の中でのキリスト教徒の象徴となった。中世以後、サンティアゴ・デ・コンポステーラへは巡礼路を巡ってヨーロッパ中からキリスト教徒が巡礼するようになった。人々の往来は、この地方へのロマネスク美術の伝播、吟遊詩人の詩や音楽が伝えられるなど、文化的な交流をもたらした。9世紀から10世紀にかけて、沿岸部をヴァイキングノルマン人が荒らしまわり、現在もカトイラ(ポンテベドラ県)には防衛用の塔が残る。

13世紀、アルフォンソ10世はカスティーリャ語を国家の言語と定め、宮廷や政治の場で使用させたが、文学の言語としてはガリシア語を使用した。カスティーリャ優位の中央集権体制が進むにつれ、ガリシア語は徐々に衰退していった。おおまかに16世紀から18世紀半ばまでの時期は、ガリシア語のセクロス・エスクーロス(Seculos Escuros、暗黒時代)と呼ばれ、ガリシア語が書き言葉として使われる伝統は途絶えてしまったが、口語として途絶えることはなかった。

1833年それまであった7県(ラ・コルーニャ、サンティアーゴ、ベタンソス、モンドニェード、ルーゴ、オレンセ、トゥイ)が現行の4県に再編され、現在にいたっている。19世紀にガリシア民族主義、連邦主義が勃興する。しかし1846年、自由主義者の将軍ミゲル・ソリスが起こしたクーデターは、ラモン・マリア・ナルバエス政権によって弾圧された。替わって盛り上がりを見せたのは社会的・文化的手段としてのガリシア語復興運動(レシュルディメント)であった。作家ロサリーア・デ・カストロ、マヌエル・ムルギア、エドゥアルド・ポンダルらがその代表者である。

20世紀の独裁者フランシスコ・フランコはガリシア地方フェロルの出身であったが、フランコ時代にはガリシアの自治は廃止され、公でのガリシア語の使用は禁止された。1978年スペイン新憲法によって自治州制度が導入され、1980年12月20日ガリシア自治憲章(ガリシア語版)が住民投票によって可決成立、ガリシア自治州が創設された。
人口

ガリシア州の人口推移 1900?2010

出典:INE(
スペイン国立統計局)1900年 - 1991年[4]、1996年 - [5]

政治

1975年フランコ独裁政治が終わり、民主化(トランシション・エスパニューラ)の波がガリシアにも訪れた。しかし、他州と違い1977年の総選挙では、中道右派の民主中道連合 (UCD) が勝利し、自治州政府設立とガリシア自治州憲章の作成にあたった。1979年の総選挙でも UCD が圧勝した。1980年に自治州憲章案が住民投票で承認され、1981年の第1回州議会選挙で右派の国民同盟(AP、後期フランコ政権の閣僚が多く所属していた)が勝利した。第2党はUCDであった。[6]。その後自治州議会により、「言語正常化法」「ガリシアの旗」「ガリシアの日」などが制定された。自治州は、いくつかの分野で自由裁量が認められている。

ガリシアは伝統的に独立自営農民が多く、保守的な土地柄である。そのため独自の言語(ガリシア語)を持った地域だが、バスクカタルーニャのように保守的な民族主義政党が育たず、もっぱら民族主義政党は左派が中心で、結果的に民族主義政党の力は両州に比べ強くなく、保守的な国民党の地盤となっている。1990年から15年にわたって、フランコ政権末期の閣僚で、国民同盟(のちの国民党)を創設したマヌエル・フラガ・イリバルネが州首相を勤めた。

しかし、2005年の州選挙では州議会の議席数75の内、国民党の地域政党であるガリシア国民党(PPdeG)が37、社会労働党(PSOE)の地域政党であるガリシア社会主義者党(PSdeG)が25、民族主義政党連合であるガリシア民族主義ブロック(BNG)が13議席を獲得し、国民党は過半数を獲得できず、ガリシア社会党(社会労働党)とガリシア民族主義ブロックの連立政権が誕生、州首相にはガリシア社会党からエミリオ・ペレス・トウリーニョ(Emilio Perez Tourino)が、副首相にはガリシア民族主義ブロックからアンショ・キンターナ(Anxo Quintana)が選出された。2009年3月1日の州選挙ではガリシア国民党は過半数の38議席を獲得、PSdeGとBNGはそれぞれ25議席、12議席にとどまり、与党の座を国民党に明け渡すこととなった。ガリシア国民党の党首アルベルテ・ヌーニェス・フェイホー(Alberte Nunez Feijoo)が州首相に選出された。
政党

主要政党

エン・マレーア - 2015年の総選挙のために設立された選挙連合。下記のAnova、EUの他、同年の自治体選挙で躍進した選挙連合のマレーア・アトランティカコンポステーラ・アベルタ、フェロル・エン・コムンほか、全国政党のポデーモスによって構成。

アノーバ=イルマンダーデ・ナショナリスタ(Anova) - ガリシア民族主義を掲げる政党。

エスケルダ・ウニーダ(EU、全国政党統一左翼のガリシア州の連合政党、中核政党はガリシア共産党)。


アルテルナティーバ・ガレーガ・デ・エスケルダ(AGE) - AnovaとEUによって2012年の州選挙のために設立された選挙連合。

ガリシア国民党(PPdeG) - 国民党の支部政党。

ガリシア社会主義者党(PSdeG) - スペイン社会労働党の支部政党。

ガリシア民族主義ブロック(BNG) - ガリシア民族主義政党。


その他の政党

ガリサ人民戦線(FPG)

ガリシア主義党(Partido Galeguista)

ガリシアの大地(Tega)

ノス=ウニダーデ・ポプラール(Nos-UP)

元首相で国民党の党首であるマリアーノ・ラホイ・ブレイはガリシア出身である。
選挙結果

選挙PPdeGPSdeG-PSOEAGE
EU-AnovaBNG備考
得票%議席得票%議席得票%議席得票%議席
1981年301,03930.5226193,45619.6216??????第2党はUCDで、得票274,191票、割合27.80%、24議席。第4勢力のBNPG-PSGは3議席を獲得、これらが後にBNGの母体となった。
1985年516,21841.1734361,94628.8622???53,9724.231第3党はCG[7] で11議席、第4党はPSG-EG[8] で3議席獲得。
1989年583,57944.2038433,25632.8128???105,7038.015第4党はPSG-EG、第5党はCGで、それぞれ2議席獲得。
1993年763,83952.6243346,83123.8919???269,23318.5513
1997年832,75152.8842310,50819.7215???395,43525.1118BNGが初めて第2党になった。


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