ガメラ
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一方で、本シリーズは「ゴジラシリーズ」との「共存」を目指して出発したこともあり、両シリーズが製作面において関係者を共有してきたことも多く、平成三部作は「洋画系」ではあったが東宝によって配給されており、東宝側から見ても本シリーズは決して「敵対」するようなライバルではないとされる[14][43]

結果的に本シリーズは7?17年間に渡る休眠を4度経ており、複数回の打ち切りや続編や新作のキャンセルなどに直面してきた。長期の休眠だけでなく予算の都合から新作の宣伝費も限定されるためにさらに知名度も低下しやすいなどの二次的な悪影響を受ける側面もある[注釈 15][14]。計12作存在する劇場作品において、それらの中の一作も経済的な理由から完全な新規作品ではなくて過去作のストック・フッテージに依存している[14]
大映時代「第一次怪獣ブーム」、「第二次怪獣ブーム」、「エキスプロダクション」、および「ヤンガリー」も参照シリーズ初の総天然色作品であり、「大魔神」シリーズの発足にも帰結した『大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン』であるが、昭和作品では唯一子供が登場せず、湯浅憲明も監督していない。

旧大映時代のガメラシリーズは、東宝製作のゴジラシリーズの成功に触発された当時の各映画会社がこぞって製作していた怪獣映画作品群の流れを受けて誕生したが、後述の通り大映による1962年の『鯨神』と1965年の『大怪獣ガメラ』以降に他会社による怪獣映画が急増し[注釈 16]、ガメラシリーズも「怪獣」や「特撮」というジャンルに与えた影響が大きいとされる[14]

また、大映時代の配役には『ガメラ対宇宙怪獣バイラス』以降は必ず外国人の少年(およびその家族)が登場し、主人公である日本人の少年とともに冒険するという特徴がある[注釈 17]

誕生秘話としては、「当時の大映社長の永田雅一が、アメリカ合衆国に向かう飛行機から見下ろした島または島の上に浮かぶ雲の形状が亀または亀の甲羅に似ていたことにインスピレーションを受け、『大映の怪獣は空を飛ぶ亀をモチーフにする』こととなった」という逸話がある[45]。一方で、当初は『大海魔ダコラ』というタコの怪獣映画が企画され[注釈 18]、その後に撮影こそされたが諸事情で製作中止となった『大群獣ネズラ』を経て、永田のアイディアを受けて斉藤米二郎高橋二三によって考案された「火喰いガメ 東京を襲う」が『大怪獣ガメラ』の原案になったとされる[38]。また、別の説として大映の撮影所の近所のとある神社の池に女性の参拝客が訪れる時に限って姿を現すことから「スケベガメ」と呼ばれたカメがいたため、大映の関係者の間ではこのカメがガメラのモデルになったという噂や、このためにガメラは「当初は子供ではなくて女性の味方と予定されていた」という噂も存在したとされる[14]

方針として、ゴジラシリーズとの競争ではなく共存が念頭にあったとされ、下記の六社協定や予算面の事情があっただけでなく、ゴジラシリーズとの差別化がとくに意識されており、明確に方向性を変えることでガメラとゴジラの両シリーズが愛されるように目指したとされ、ゴジラシリーズがガメラシリーズから影響を受けるほどにアイコンとしてガメラが確立され、多くのファンを獲得したとされる[注釈 19][14][15]

大映側(永田雅一)の主導によって制定された六社協定の影響で、東宝以外の会社は東宝が確立した特撮の技術などを表立って使うことができない状況にあり[注釈 20]日活松竹が1967年の『大巨獣ガッパ』や『宇宙大怪獣ギララ』に円谷英二のチームを起用したのに対して、大映だけはあえて円谷の力を借りずにそれらよりも先に看板怪獣を製作し[注釈 21]、厳しい経営状況と六社協定の条件をクリアするためにゴジラシリーズとの差別化を念頭に置き、怪獣映画の「お約束」である「自衛隊や軍隊や兵器群」や「科学的な考察」の導入をあえて制限し、奇抜ながらも子供が共感を得やすく、子供が活躍し、ガメラと子供たちの絆がキーポイントとなるという方向性を確立させた[注釈 22][14]

第一作目である『大怪獣ガメラ』の製作の時点ですでに大映は経済的な危機に追い込まれており、本シリーズは宣伝費も含めた予算面で非常に苦しんだ[注釈 23]。『大怪獣ガメラ』は当時の「ゴジラシリーズ」の作品と異なり白黒であり、制作陣の間でも「たらい回しの末に湯浅憲明に放り投げられた」「安っぽい」「失敗は目に見えている」とさえされていた。しかし、本作の予想外の大ヒットによって大映は多少であるが経済的に持ち直し、ガメラシリーズだけでなく(ガメラシリーズの影響を受けている)「大魔神」シリーズや「妖怪シリーズ」もドル箱として機能し始めた[14]。そしてガメラシリーズの影響で大映は実質的に倒産が先送りになり、本シリーズが当時の大映を実際の倒産まで支えていたとされる。なお、大映の倒産を知った湯浅憲明は悔しさのあまり残されていたガメラや敵怪獣の着ぐるみや造形物などを自ら壊したというエピソードが残されている[14][15]

なお、大映の経済状況から上記の通り敵怪獣のデザイン(操演に必要な人数を減らすなど)や能力などのアイディアが制限され、予算ゆえにSFXも多用できないために子供向けにもかかわらず残酷な近接戦闘を増やし、『ガメラ対宇宙怪獣バイラス』以降は十分な宣伝費が確保できないため、そのような状況でも可能な限り注目度を高めるためにバイラス以降の敵怪獣の名前をすべて一般公募にした[注釈 24]。一方で、ガメラの飛行方法として回転ジェットではなく両脚からのジェット噴射による飛行方法も経費削減の結果として生まれたとされる[14]。また、大映が倒産する前の最後の作品であった『ガメラ対深海怪獣ジグラ』は配給が日活との共同で行われたが、このような傾向は現在に至るまで続いている[注釈 25][38]
徳間グループ時代「GAMERA1999」、「ガメラ4 真実」、「ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃」、および「水曜どうでしょう」も参照

徳間書店グループ下の新会社として再建された大映は、当時の徳間グループによるメディアミックス戦略の一環として『ゴジラ』に対抗しうる特撮映画を制作することを検討する。当初は「大魔神」または「妖怪シリーズ」の復活を検討していたが、人気や知名度や予算の都合上で難しく[注釈 26][9][46]、その結果、前述した通りの人気を持っていたガメラに着目し、新作の制作を決定した。

1980年に9年ぶりの新作として公開された『宇宙怪獣ガメラ』は新規の特撮シーンが非常に少なく、怪獣の映像の大部分を過去作品のストック・フッテージの再利用であるが、これは大映の倒産による経済面の問題があったことと、『実相寺昭雄監督作品ウルトラマン』の成功の影響を受けたからだとされている[注釈 27][38]

平成三部作とは別に高橋二三は1994年の公開を目指した作品『地球大破滅(ハルマゲドン)- ガメラVS.不死鳥(フェニックス)』のプロットを作成しており、映像化には至らなかったが1995年に出版された小説『ガメラ対不死鳥』の原案となった[49][50]


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