ガブリエーレ・ダンヌンツィオ
誕生ガエターノ・ラパニェッタ
1863年3月12日
イタリア王国 ペスカーラ
死没 (1938-03-01) 1938年3月1日(74歳没)
イタリア王国 ガルドーネ・リヴィエーラ
職業詩人、小説家、劇作家
言語イタリア語、フランス語
ジャンル浪漫派、頽廃派、耽美派、愛国主義、超人、死、ナルシシズムなど
文学活動デカダンス、象徴派
代表作早春
快楽
罪なき者
死の勝利
聖セバスティアンの殉教
デビュー作早春
影響を受けたもの
古代ギリシャ、ダンテ・アリギエーリ、フリードリヒ・ニーチェ、リヒャルト・ワーグナーなど
影響を与えたもの
ルキノ・ヴィスコンティ、フランチェスコ・パオロ・トスティ、オットリーノ・レスピーギ、クロード・ドビュッシー、ファシズム、ベニート・ムッソリーニ、マルセル・プルースト、三島由紀夫、生田長江、上田敏など
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初代モンテネヴォーソ大公ガブリエーレ・ダンヌンツィオ(Gabriele d'Annunzio[1], Principe di Montenevoso、1863年3月12日 - 1938年3月1日)は、イタリアの詩人、作家、劇作家。ファシスト運動の先駆とも言える政治的活動を行ったことで有名。なお日本ではダヌンツィオ、ダンヌンチオ、ダヌンチオとも表記する。 ガブリエーレ・ダンヌンツィオはペスカーラにて、富裕地主(かつ同市の市長)の息子として生まれる。その早熟の才は早くから認められ、彼はプラートのチコニーニ寄宿学校
生涯
1883年にマリア・ハルドゥイン・ディ・ガレーゼと結婚し3人の息子を儲けるが、1891年には離婚。のち1894年には有名な女優エレオノーラ・ドゥーゼとの愛人関係が始まり、それは大きなスキャンダルになった。ダンヌンツィオはドゥーゼが主役を演じるよういくつかの演劇、例えばLa Citta morta(死都、1898年)やFrancesca da Rimini(フランチェスカ・ダ・リミニ、1901年)を書いた[2]が、この激しい男女関係は1910年に終りを告げる。
1897年には3年任期の下院議員に選出され、そこでは無所属として過ごした。1910年にはその放縦な生活から多額の債務を負い、債権者から逃れるためフランスに逃亡した。フランスでは作曲家クロード・ドビュッシーと意気投合、聖史劇『聖セバスティアンの殉教』(1911年)が生まれた。
第一次世界大戦の開戦とともにイタリアに帰国したダンヌンツィオは、大衆に向けて連合国側に立っての参戦を訴える演説を行う。彼自身は志願して戦闘機パイロットとして参戦、飛行中の事故で片目の視力を失う。1918年8月9日には第87戦闘機中隊を率い、700マイルの往復飛行を行いウィーンにプロパガンダ用のビラを撒布するという業を演じた(ダンヌンツィオのウィーン上空飛行(英語版))。またこの大戦中、イタリア軍に義勇兵として参加従軍した日本人下位春吉と意気投合し、親交を深めた。
彼の国家主義的立場はこの大戦の経験により、より強固なものになった。彼はイタリア国内で広く政治運動を行い、イタリアが大戦中に得たヨーロッパの一等国としての役目を戦後も果たしていくべきだと主張した。パリ講和会議で、フィウーメ(いわゆる未回収のイタリアの一部。現クロアチア領のリエカ)をセルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国(後のユーゴスラビア王国)に割譲すべしとの結論が出されたことに激怒したダンヌンツィオは、1919年9月12日、ロンキ・ディ・モンファルコーネから、自らを「司令官」(イタリア語: Comandante)とする「軍団」(イタリア語: Legionari)と称されるイタリア人武装集団を率いて進軍し(ロンキ進軍)、フィウーメ市を占拠、アメリカ、イギリス、フランス3軍から組織された守備軍を追放した。この時のダンヌンツィオのスローガンが「全ての抑圧された人々の解放」であり、十月革命を支持するというものだった。この行動からダンヌンツィオはウラジーミル・レーニンに「革命家」として絶賛される[要出典]。
彼らはイタリアによるフィウーメ併合を要求した。これはイタリアの悲願でもあったが、国際関係の悪化を懸念してイタリア政府は国境線を封鎖、武装組織の投降を促した。そこでダンヌンツィオは1920年1月に政府首班として元イタリア社会党員でアンジェロ・オリベッティ(it:Angelo Oliviero Olivetti)とともに「Pagine libere」を書いた革命的サンディカリストのアルチェステ・デ・アンブリス(it:Alceste De Ambris)を任じ、9月にデ・アンブリスによって後のイタリア本国のファシスト国家機構の先駆となるカルナーロ憲章(it:Carta del Carnaro)が発布、フィウーメの独立を宣言した(カルナーロ=イタリア執政府)。更に彼は国際連盟に対抗する組織を計画、被抑圧民族(例えばフィウーメのイタリア人、バルカン半島のスラブ人民族分離主義者など)を糾合することを構想したが、これは失敗した。彼は1920年のイタリアとセルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国間のラパッロ条約(1922年の独ソ間の条約と異なるので注意)を無視し、イタリア本国にまで宣戦布告したが、イタリア海軍による艦砲射撃を受け、12月に投降した。
フィウーメ占拠事件後のダンヌンツィオはガルダ湖畔の自宅に隠退し、著作活動を行った。しかしフィウーメ時代の側近との連絡を保っており、政界に隠然たる勢力を持っていた[3]。彼はムッソリーニに多大の影響を与えたのは事実だが、彼自身は後のファシスト政権に直接関与したことはなかった。1922年のファシスト党によるローマ進軍の前後には、彼の声望を利用してファシスト党の行動を抑制しようとする動きがあり、ダンヌンツィオとその側近も同様の考えを持っていた[4]。