ムッソリーニは国民的英雄であるダンヌンツィオを尊重してみせたが、実際の権力は一切渡さなかった。1924年には国王より"it:Principe di Montenevoso(モンテネヴォソ公爵)[9]の称号を送られている。1937年にはイタリア王立アカデミーの総裁に就任、1938年3月1日、自宅で脳卒中により死去。ムッソリーニにより国葬され、ガルドーネ・リヴィエーラの別荘に設けられた霊廟に埋葬された ⇒[1]。 ダンヌンツィオは思想・手法の両面においてイタリア・ファシズムの先駆であったとしばしば見做される。彼自身の政治信条は、デ・アンブリスと共同で起草したそのカルナーロ憲章によく現れている。この憲法では協調組合主義(コーポラティズム)による国家観がとられており、それらは労働者、雇用者および自営業者・専門家をそれぞれ代表する9つの組合、および(ダンヌンツィオの創始した)「優越した人間」(英雄、詩人、預言者、超人たち)を代表する第10の組合からなるとした。またこの憲法では音楽を国家の最高原理であると規定していた。 ムッソリーニがダンヌンツィオから模倣し習得したのは、その独裁政治の手法、つまり、協調組合主義による経済政策、大規模で感情に訴える大衆行事、ローマ帝国時代を真似たローマ式敬礼、聴衆に対する誇張に満ちた質問の問いかけ、黒シャツ隊による反対者への脅迫・暴力的弾圧など、である。 ダンヌンツィオはイタリアの拡張主義的外交政策を支持しており、エチオピア侵攻を賞賛していた。 ダンヌンツィオはまた、政治的反対者を拘束して多量のひまし油を飲ませることで衰弱させ、場合によっては死に至らしめるという拷問の創始者であるとも言われている。この方法はムッソリーニの黒シャツ隊の常套手段となる。 ダンヌンツィオの文学は盛名期において、その高い独創性、力強さおよびデカダンスが高く評価されていたし、同時代の全ヨーロッパ文壇、また後世のイタリア作家たちに多大の影響を与えたのだが、その19世紀末における作品群は現在では忘れ去られつつある感があるし、また文学上の名声は、彼の政治活動の前に常に曇らされる運命にあった。 彼は多作であった。代表的な小説としては『快楽の子』(Il Piacere、1889年)、『死の勝利』(Il Trionfo della Morte、1894年)、『巌の処女』(Le Vergine delle Rocce、1896年)がある。また早くから映画にも関心を示した彼は、第二次ポエニ戦争に題材をとった無声映画『カビリア』(1914年)のシナリオを作成している。 彼の著作はフランス象徴派文学の強い影響を受けており、激しい暴力や異常な心理状態の描写が、壮麗な空想場面によって彩られていることを特徴とする。小説における代表作品の一つで、発表時に大きな話題を呼んだIl Fuoco(炎、1900年)では、彼は自分自身をニーチェ的超人"Stelio Effrena"として描き、女優エレオノーラ・ドゥーゼとの虚実取り混ぜた愛情関係を記している。また彼の短編にはモーパッサンの影響もみられる。 彼の小説の心理的インスピレーションは、フランス、ロシア、北欧諸国あるいはドイツなど様々の文学にその出発点を得ており、特に初期の作品にあっては独創性には乏しい。その創作力は深く鋭いが、常に狭く個人的であった。例えば彼の描く主人公はいつでも同じタイプの人物であり、それが人生のそれぞれの段階でそれぞれの問題に直面した、というに過ぎない。しかし彼の欠陥のない文体、語彙力の豊富さに比肩しうる同時代の作家は存在しなかった。後期の作品では、ダンヌンツィオはイタリアの昔日の栄光の歳月にその題材を求めることが多くなる。 戯曲も手掛け、神曲に材を取った『フランチェスカ・ダ・リミニ』はザンドナイによりオペラ化された。近年メトロポリタン歌劇場を始め、欧米の劇場で上演される機会が増えている。 ダンヌンツィオの生涯と作品はIl Vittoriale degli Italiani(it ペスカーラにあるダンヌンツィオの生家もまた博物館として一般公開されている。 同時代のイタリアの作曲家たちもまた、ダンヌンツィオの詩才に魅了された。トスティ、レスピーギはじめ、有名、無名あわせて50人以上が彼の詩に曲付けしたという。中でもトスティは、この若き詩人をまだ高等専門学校在学中の1880年から寵愛し、詩への作曲は1916年のトスティの死に至るまで続いた。 日本では明治時代に上田敏らによって早くから紹介され、英訳・仏訳・独訳を通して広く読まれ、当時社会現象となっていた「煩悶青年」たちを虜にした[10]。なかでも『死の勝利』は日本文壇に衝撃を与え、ダンヌンツィオ流恋愛の実践と言われた森田草平・平塚らいてうの心中未遂事件を引き起こし、事件をもとにしベストセラーになった森田の『煤煙 (小説)』には『死の勝利』の影響が強く見られた[10]。戦後は政治的活動により色者扱いされ、同じ日独伊三国同盟の盟友であるトーマス・マンと異なりほとんど埋もれた状態になった。世紀が変わったころから再評価が進み、重要な作品の新訳がいくつか行われている。 三島由紀夫の『岬にての物語』(1946年)は、生田長江訳『死の勝利』[11]を下敷きにしていると、筒井康隆は、著書『ダンヌンツィオに夢中』(中央公論社、1989年/中公文庫、1996年)で述べている。三島自身による唯一の翻訳出版は、池田弘太郎[12]との共訳で『聖セバスチァンの殉教』(美術出版社、1966年/国書刊行会〈クラテール叢書〉、1988年)である。これら作品上の関係のみでなく、楯の会の制服や行動にダンヌンツィオの影響[13]を見る者も多い。 三島が自決間際に、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地の本部庁舎バルコニーからおこなった演説(三島事件参照)は、フィウーメ占拠時のダンヌンツィオが取った行動の模倣であると、たびたび指摘[14]されている。
政治手法
文学
博物館Il Vittoriale degli Italiani
ダンヌンツィオとイタリア歌曲
日本における受容
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