1920年4月にはロシア共産党政治局の決議によって赤軍のアゼルバイジャン侵攻(ロシア語版)に参加し[9]、4月28日からアゼルバイジャン社会主義ソビエト共和国の農業人民委員、貿易・産業人民委員を、1921年5月19日までアゼルバイジャン臨時軍事革命委員、1922年まで食糧人民委員を務め[1]、1921年夏にはアゼルバイジャン共産党中央委幹部会員、クバ郡非常委員に就き、教育人民委員部、外務人民委員部、高等経済会議でも勤務した[9]。同年7月から翌1922年11月まではコミンテルン執行委員候補[1]、後には執行委員となった[6]。
1922年4月のジェノア会議にナリマノフが出席した際にはアゼルバイジャン共和国人民委員会議議長を代行し[5]、翌5月7日から[1]1930年3月までは正式に人民委員会議議長を務めた[8]。1925年5月21日からはソビエト連邦中央執行委議長の一人となり[1]、プロレタリア国際主義の宣伝者として活動[12]。12月31日からは連邦共産党中央委員候補にも選出されている[1]。1929年9月から1931年12月15日まではアゼルバイジャン共和国中央執行委議長に就き[1]、この間に農業の機械化・集団化・灌漑拡大・暴動鎮圧などに役割を果たした[11]。1931年11月12日から1936年12月5日まではザカフカース連邦共和国中央執行委議長に就き[5]、民族間交流と農業の発展に注力した[12]。
粛清(ロシア語版)から第17回(ロシア語版)までの連邦党大会とコミンテルン第3回大会(ロシア語版)にも出席した[6]。しかし、連邦中央執行委議長に在職中の1937年6月23日に党中央委から除名され[5]、7月25日にモスクワの自宅で逮捕された[14]。その後グルジア共和国に移送され、11月6日にグルジア共和国刑法第58条7項および11項により有罪判決を受けた[14]。さらに翌1938年2月9日に連邦最高裁軍事参議会(ロシア語版)によって死刑判決を下され[5]、同日NKVD刑務所で処刑された[15]。遺体はドンスコイ修道院(ロシア語版)で火葬された[15]。その後、ムサベコフは1956年(または1959年[15])に名誉回復(ロシア語版)と党籍回復がなされた[16]。その名はバクーの通りに残されている[17]。
アゼルバイジャン共和国教育人民委員などを務めた妹のアイナ(ロシア語版)、そして外務人民委員などを務めたその夫ガミド・スルタノフも1938年に処刑された[18]。
脚注^ a b c d e f g h i j “ ⇒Мусабеков Газанфар Махмуд оглы”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. knowbysight.info. 2018年4月20日閲覧。
^ R?himli, ?ahan? (2015年5月1日). “Sayt?n qona?? | `Siyas?td? hec n? ?b?di deyil` - Rasim Musab?yov (V?DEO)”. Azvision.az. https://azvision.az/news/59679/saytin-qonagi-%7C-siyasetde-hec-ne-ebedi-deyil-rasim-musabeyov-video.html 2018年4月20日閲覧。
^ “ ⇒Высшие органы государственной власти СССРЗ - ЗСФСР”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. knowbysight.info. 2018年4月20日閲覧。