ガイウス・ユリウス・カエサル
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すると、同僚執政官と反目し、スッラが定めた護民官権限削減の復活や穀物法の撤回、没収された資産の返却などを訴え挙兵したマルクス・アエミリウス・レピドゥス[34]はカエサルに参加を呼び掛けたが、カエサルはこれを断った[35]

当時ローマでは属州統治に現地民への脅迫や搾取・収賄を行う者が頻繁にいた。紀元前77年、カエサルは執政官経験者のグナエウス・コルネリウス・ドラベッラをこの罪で訴追した[36]。共和政ローマでは私人訴追主義で、訴追者自らが裁判で相手側弁護士と戦うため、多数決で判決を下す審判人を説得するための高度な修辞学が求められ、訴追者は政敵や訴追によって名を売ろうとする若者、職業的訴追人などが主であった[37]

このドラベッラの告発に失敗し、復讐を恐れたカエサルは紀元前75年ロドス島へ赴き、キケロの師で[38] 修辞学の権威として著名であったアポロニウス・モロンに師事した[39]。彼には弁舌の才能もあったが、その努力を政治や軍事方面に向けた結果覇者となったため、キケロは他の雄弁家と比較することは避けたという[40]

この時カエサルはエーゲ海を船で渡っていたが、途中キリキア海賊に囚われの身となった。海賊は身代金として20タレントを要求したが、カエサルは「20では安すぎる、50タレントを要求しろ」と海賊に言い放ち、その間海賊に対して恐れもせずに尊大に接するだけではなく、「自分が戻ったらお前たちを磔にしてやるぞ」と海賊に対し冗談すら言った。そして身代金が支払われて釈放されるとカエサルは海軍を招集し海賊を追跡、捕らえてペルガモンの獄につないだ。そしてアシア属州の総督に処刑するように命じるが、総督はこれを拒否して海賊を奴隷に売ろうとする。するとカエサルは海路を引き返して、冗談でほのめかした通りに自分の命令で海賊たちを磔刑に処したという[41]

紀元前73年、カエサルは死去したガイウス・アウレリウス・コッタ (紀元前75年の執政官)の後継神祇官に就任したと考えられている[42]
クルスス・ホノルム

紀元前71年、軍団司令官(トリブヌス・ミリトゥム)に就任[43]クルスス・ホノルムを歩み始めた。ヒスパニアでのクィントゥス・セルトリウスによるローマとの戦争(英語版)に加えて、紀元前73年にはスパルタクスらが首謀した第三次奴隷戦争が勃発、グナエウス・ポンペイウスマルクス・リキニウス・クラッススがこれらの戦争で活躍していた。彼ら二人は紀元前70年に執政官を務めている[44]。この時期のカエサルは妻の兄弟のキンナと手を組み、市民集会(コンティオ)で演説を行うなど、スッラの粛清から逃げていた人々の帰還事業を支援していた[45]
クァエストルポンペイア

紀元前69年に財務官(クァエストル)に選出された[44]。この頃、叔母でマリウスの寡婦であったユリアの葬儀で追悼演説を行った[9]。またこの時、スッラの粛清以来すっかり見なくなったマリウスの像を掲げてみせたという[46]。妻のコルネリアも同年死去したため、カエサルはクィントゥス・ポンペイウス・ルフスとスッラの孫であるポンペイアと結婚した[9]

財務官として、カエサルはヒスパニア・ウルテリオルのプロプラエトル、ガイウス・アンティスティウス・ウェトゥスの下で働く[47]。ここでアレクサンドロス大王の像を目にして「アレクサンドロスは今の私と同じ年の頃には世界を手に入れた。自分は何もなしえていない」と落胆し、こんなことをしている場合ではないと、辞任を申し出ようとした。カエサルはこの夜に母アウレリアを犯す夢を見たため激しく狼狽したが、占い師は「母とは全ての母に当たる『大地』である」と解釈し、彼が支配者となる証だと焚き付けた[48]。カエサルは任期を早めに切り上げ、ローマに帰る途中、ローマ市民権を要求して不穏な空気が流れていたトランスパダナ(ポー川以北)地方を回った。スエトニウスは、彼が何かしら企んでいたのかもしれないとしている[49]

この時期、カエサルはローマ転覆の陰謀への関与が取り沙汰された。上級按察官(アエディリス・クルリス)に就任する直前に、その年収賄の罪で予定執政官の地位を剥奪されていたプブリウス・コルネリウス・スッラ(紀元前68年のプラエトル)とプブリウス・アウトロニウス・パエトゥス(紀元前68年のプラエトル)[50]、クラッススと謀り、元老院を強襲してクラッススを独裁官、カエサル自身はその副官である騎兵長官(マギステル・エクィトゥム)としてローマを壟断しようとする計画であった。これは複数の歴史家が記録しているが、結局クラッススが決心できず未遂に終わったという。他にもトランスパダナのガリア人らと呼応して決起する計画もあったという[51]
アエディリス・クルリス

紀元前65年には上級按察官に就任した(平民按察官の一人はキケロであった)[52]。同僚のマルクス・カルプルニウス・ビブルスと公共事業や競技会などを行ったが、まるでカエサルだけが負担したかのように賞賛されたという[53]。こうして民衆の支持を得ると、カエサルは護民官を抱き込んでプレブス民会古代エジプトが任地となるよう決議させようとした。しかし貴族たちの反対にあい、それに反発したカエサルは公然と叔父であるマリウスの戦勝碑の修復に着手し、スッラのプロスクリプティオに基づく没収財産で財を成した者の告発を行った[54]
紀元前63年

紀元前63年護民官ティトゥス・ラビエヌスと共闘し、元老院議員ガイウス・ラビリウスを、37年前の護民官ルキウス・アップレイウス・サトゥルニヌス殺害の容疑で告発させた。


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