氏族は古い系譜を有するパトリキではあったが、カエサル家は2つの家系に分かれ、カエサルの直系の先祖に執政官経験者はいない。当時力を付けてきていたガイウス・マリウスと結ぶことによってその地位の向上を計ったとみられる[8]。カエサルは自身の叔母でマリウスの妻でもあったユリア (ガイウス・マリウスの妻)(英語版)の追悼演説で「ユリウス氏族はアエネアスの息子アスカニウスに由来し、したがって女神ウェヌスの子孫であり、また、カエサルの母方はアンクス・マルキウス(王政ローマ第4代の王)に連なる家柄である」と述べている[9]。(氏族の先祖であるガイウス・ユッルスの頃は、コグノーメンをIullusと表記していたが、『アエネーイス』でアスカニウスの別名ユールスが有名になるにつれ、Iulusと表記されるようになった[10]。)カエサルが戦地で鋳造したと思われるデナリウス銀貨。象の姿が刻まれている
なお、「カエサル」という家族名の起源としては以下の説がある。 ガイウス・ユリウス・カエサルの生誕年として以下の2つの説がある。 父は同名のガイウス・ユリウス・カエサル(Gaius Iulius Caesar)で、ガイウス・マリウスは父ガイウスの義弟に当たる。父ガイウスはプラエトルを務めた後、アシア属州の属州総督を務めた。母はルキウス・アウレリウス・コッタの娘アウレリア・コッタ
大プリニウスの『博物誌』[11] によれば、母を犠牲にした子は幸運の持ち主で、スキピオ・アフリカヌスがそうであったが、初代カエサルは母の子宮を切った(caeso)ためにその名で呼ばれ、同じ理由でカエソ(というプラエノーメン)もそう呼ばれたとしている(ラテン語で「切る」という意味のcaedere(受動完了分詞 caesus)に由来か[12])。
『ローマ皇帝群像』においては、以下の4つが挙げられている[13]。
戦争で象(マウリ人の言葉、おそらくフェニキア語でcaesai カエサイ)を殺した説[注釈 2]
母の死後、切開して生まれた(上記参照)
最初にカエサル姓を名乗った人物が頭の毛がふさふさしていた(caesaries カエサリエス)説[注釈 3]
灰色の瞳(oculis caesiis オクリス・カエシイス)をしていた説
生涯マリウスのものと思われる胸像。グリュプトテーク収蔵
生誕
スエトニウス『皇帝伝』の記述に沿った紀元前100年[14]、
カエサルがプラエトル(法務官=就任資格が40歳以上)に就任した紀元前62年から逆算した紀元前102年
なお、誕生月日も幾つかの説がある。カエサルの神格化を決議した後にカエサルの誕生日を祝う記念日を『ルディ・アポッリナレス(英語版)』(7月6日から13日まで)の最終日に当たる7月13日を避けて7月12日に設置したと伝わっているため、7月13日をカエサルの誕生日とする説が有力であるが、7月12日とする説もある。 幼少期のカエサルについては、プルタルコス『英雄伝』やスエトニウス『ローマ皇帝伝』などの文献に言及が無く、はっきりしない。ローマ国内は政治的に不安定で、ユグルタ戦争、キンブリ・テウトニ戦争の英雄ガイウス・マリウスと、そのライバルであったルキウス・コルネリウス・スッラが対立しており[15]、カエサルは叔母ユリアがマリウスに嫁いでいたことからマリウス派であった。ただ、それはよく民衆派と呼ばれる政党的なものというよりは、マリウスを中心とした緩い個人的なつながりと考えられる[16]。紀元前91年の同盟市戦争では、同盟国がローマ市民権を求めて蜂起し、ルキウス・カエサルがユリウス法を提案し、イタリア半島ポー川以南の全自由民に市民権を与えることで決着したが、彼らをどのトリブス(選挙区)に登録するかで揉め、一部の抵抗も続いていた[17]。 紀元前88年、ポントス王国ミトリダテス6世とのミトリダテス戦争が起り、執政官であるスッラがインペリウムを得て指揮を執ることになった。しかしマリウスにミトリダテス討伐のインペリウムを付与する法案が提出され、市内では騒乱が起り、ローマを脱出したスッラは同僚執政官と共に軍を率いてローマへ侵攻。老年のマリウスはローマから逃げのびたが、「国家の敵」宣言を受ける[18]。そしてスッラがルキウス・コルネリウス・キンナに後事を託して再び遠征に出かけると[19]、今度は同僚執政官に追放されたキンナがマリウスを呼び戻し再びローマを制圧、スッラを「国家の敵」と弾劾してスッラ派を粛清した[20]。ルキウス・カエサルも、マルクス・アントニウス・オラトルらと共に殺され、ロストラに晒された[21]。 紀元前86年初頭、マリウスは没した[22]。残されたキンナは死去する紀元前84年までローマを支配し、おそらくこのキンナ時代に新市民のトリブス登録問題は解決されたと考えられている[23]。
青年期
スッラ時代カエサルの妻、コルネリア・キンナエ