ガイウス・マリウス
C. Marius C. f. C. n.[注釈 1]
ボルゲーゼ公園にあるマリウス像
出生紀元前157年
生地アルピヌム
死没紀元前86年1月13日
死没地ローマ市
出身階級エクィテス(ノウス・ホモ)
氏族マリウス氏族
官職トリブヌス・ミリトゥム(紀元前123年)
クァエストル(紀元前121年頃)
護民官(紀元前119年)
プラエトル(紀元前115年)
プロコンスル(紀元前114年)
レガトゥス(紀元前109年-108年)
コンスル I(紀元前107年
プロコンスル(紀元前106年-105年)
コンスル II-VI(紀元前104年-100年)
レガトゥス(紀元前97年)
レガトゥス(紀元前90年)
プロコンスル(紀元前88年-87年)
コンスル VII(紀元前86年
アウグル(紀元前97年-86年)
担当属州ヒスパニア・ウルテリオル(紀元前114年)
指揮した戦争ユグルタ戦争(紀元前109年)
キンブリ・テウトニ戦争(紀元前101年)
同盟市戦争(紀元前91年)
ローマ内戦(紀元前87年)
配偶者ユリウス氏族
後継者小マリウス
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ガイウス・マリウス(ラテン語: Gaius Marius、紀元前157年 - 紀元前86年1月13日)は、共和政ローマ後期の政務官。同名の息子である小マリウス(Marius Minor)に対して大マリウス(Marius Major)とも呼ばれる。地方出身のノウス・ホモだがキンブリ・テウトニ戦争で歴史的勝利を収め、この時期行われた軍制改革は、マリウスの軍制改革と呼ばれ、市民兵制から職業軍人への切り替えのきっかけとなり、武器自弁から装備の一律支給、訓練内容や指揮系統の改革などが行われている。この制度は帝政時代を含めて長らくローマの軍事制度として継承された。政治的には民衆の支持を得て計7回の執政官就任を果たし、彼の活躍と軍制改革はローマを帝政へと導く遠因の1つとなる。
マリウスがいわゆる政党政治家ではないことは古くから指摘されており[1]、以前はマリウスをポプラレス(民衆派)の首領とし、オプティマテス(閥族派)と争いを繰り広げたと説明されてきたが、そのような単純な対立構造ではなかったとも考えられており、単にマリウス派、もしくは後に協力したルキウス・コルネリウス・キンナと合わせてマリウス・キンナ派と呼ぶべきという意見もある[2]。
彼の妻であるユリアはガイウス・ユリウス・カエサルの叔母であり、カエサルは自身の栄達に亡きマリウスの名を利用した。 プルタルコスによれば、貧しい労働者の同名の父と母フルキニアとの間に[3]、アルピヌム市(現アルピーノ)にあるケレアタエという村落で生まれた[4]。実際にはキケロ家とグラティディウス氏と共にアルピヌムにおいて支配的な地位を占めていたエクイテス(最富裕層の騎士階級)であったと考えられている[5]。アルピヌムは元々ウォルスキ族の町で、ローマに征服され投票権なき市民権を与えられた[6]。ローマ市民権に格上げされたのは紀元前188年という新参の都市であった。共和政後期の弁論家マルクス・トゥッリウス・キケロとは同郷者であり、またグラックス兄弟と同年代にあたる。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}ラテン語による文学が滅びないかぎり、「マリウスの樫」と呼ばれる木がここから姿を消すことはないでしょう。(中略)時の移ろいがその木を枯らしたばあいにも、やはりマリウスの樫と呼ばれる木が、この場所にはあることでしょう。—キケロ、『法律について』1.1.2(中村善也訳[7]) 若い頃、落ちてきた鷲の巣を受け止めたとき、雛が7羽入っており、これはマリウスが最高権力を7回得る予兆とされたとプルタルコスは記している[8]。キケロの記述から、どうやら樫の木に巣を作っていたようで、普通2個しか卵を産まないものだが、古代ではありがちな奇跡ではある[9]。 マリウスは無骨な人物であったとされ、プルタルコスはその姿を描いた石像も気性をうかがわせる風貌だったと書き残している[3]。上流階層が嗜んだギリシア文化には興味を示さなかったが、野心や矜持の点では彼らと同じ物を持っていた[11] 紀元前134年、スキピオ・アエミリアヌス(小スキピオ)が執政官に選出された[12]。長引くヌマンティア戦争の打開を元老院と人々に託され、特例での再選出であった[13]。マリウスはこの遠征軍に加わり、翌前133年にかけて騎兵を務めたと考えられており、おそらくコルネリウス氏族のクリエンテス(庇護下にあるもの)だったのだろう[14]。
生涯
出自
青年期詳細は「ヌマンティア戦争」および「ルシタニア戦争」を参照鼻が欠損しているマリウスの胸像(グリュプトテーク所蔵)さてこの人物はアルピヌムの生まれで、幼少期全体をそこで過ごし、兵役の年齢に達するや軍務だけに没頭し、ギリシアの雄弁術にも都会の洗練にも染まることがなかった。—サッルスティウス、『ユグルタ戦記』63.3(栗田伸子訳[10])