続いて二人の執政官が率いたローマ軍は、カンパニアでサムニウム軍と野戦を行い、たくみな戦いで勝利を収めた[7]。そこでローマ軍の全戦列が出現したため、サムニウム軍は戦闘を継続できず、今はベネウェントゥム(現:ベネヴェント)と呼ばれているマルウェントゥムに逃げたものを除き、全てが殺されるか捕虜となった。(ティトゥス・リウィウス『ローマ建国史』、IX, 27.)
この勝利のために、ガイウス・スルピキウスは凱旋式を実施する栄誉を得ている[8]。
紀元前312年、執政官プブリウス・デキウス・ムスが病気となったために独裁官に就任[9]。ガイウス・スルピキウスはローマに対して再軍備を開始したと思われたエトルリアに備えたが、その年には戦闘は発生しなかった[10]。
参考資料^ ティトゥス・リウィウス『ローマ建国史』、VIII, 15.
^ ティトゥス・リウィウス『ローマ建国史』、VIII, 37. しかし、リウィウスは二度目ではなく三度目の執政官と述べている
^ ティトゥス・リウィウス『ローマ建国史』、VIII, 37.
^ a b ティトゥス・リウィウス『ローマ建国史』、IX, 24.
^ a b ティトゥス・リウィウス『ローマ建国史』、IX, 25.
^ ティトゥス・リウィウス『ローマ建国史』、IX, 26.
^ ティトゥス・リウィウス『ローマ建国史』、IX, 27.
^ 凱旋式のファスティ
^ 執政官のファスティではガイウス・スルピキウスが独裁官、マギステル・エクィトゥムがガイウス・ユニウス・ブブルクス・ブルトゥスとしているが、リウィウス(IX, 29)はブルトゥスを独裁官とし、マギステル・エクィトゥムの名前はあげていない: Hartfield, Marianne (1981). Ph.D. dissertation. Berkeley: University of California, Berkeley. pp. 452-54.
^ ティトゥス・リウィウス『ローマ建国史』、IIX, 29.
関連項目
スルピキウス氏族
古代ローマの独裁官一覧
共和政ローマ執政官一覧
共和政ローマ監察官一覧
凱旋式のファスティ
サムニウム戦争
公職
先代
ルキウス・フリウス・カミッルス
ガイウス・マエニウス執政官
同僚:プブリウス・アエリウス・パエトゥス
紀元前337年次代
ルキウス・パピリウス・クラッスス
カエソ・ドゥイリウス
先代
独裁官
ルキウス・パピリウス・クルソル執政官
同僚:クィントゥス・アウリウス・ケッレタヌス
紀元前323年次代
クィントゥス・ファビウス・マクシムス・ルッリアヌス
ルキウス・フルウィウス・コルウス
先代
ルキウス・パピリウス・クルソル IV
クィントゥス・プブリリウス・ピロ IV執政官
同僚:マルクス・ポエテリウス・リボ
紀元前314年次代
ルキウス・パピリウス・クルソル V
ガイウス・ユニウス・ブブルクス・ブルトゥス II