これによって、カール3世はますます弱腰で無能であるとみなされるようになり、887年11月には甥のアルヌルフがドイツを拠点に反乱を起こすに至った。しかしカール3世はナイディンゲンに逃れただけで何の策も打てず、トリブールの帝国議会において退位し[7]、2ヵ月後の888年1月13日に死去した。彼の歿後、アルヌルフが東フランクとロタリンギアを、ヴァイキングとの戦いに功があったパリ伯ウードが西フランクを、ルートヴィヒ1世の孫のフリウリ公ベレンガリオ1世がイタリアを、ルドルフ1世が上ブルグントを、ルイ3世(盲目王)がプロヴァンスをそれぞれ継承した。そしてこれより後、フランク王国がみたび統一されることはなかった。また、891年にはヴィドー家のスポレート公グイードが皇帝として戴冠した。 シュヴァーベンの伯エルハンガーの娘とみられるリヒャルディスと結婚したが[8]、嫡子は得られなかった。 以下の庶子がいる[9]。 先代 先代 先代 先代
子女
ベルンハルト(? - 891年?)
脚注^ 『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』カルル3世(肥満王)
^ 成瀬 他、pp. 52 - 53
^ a b c 瀬原、p. 55
^ 柴田 他、p. 171
^ a b 瀬原、p. 56
^ 堀越 他、p. 83
^ カラー世界史百科、p. 127
^ Reuter, p. 73
^ Reuter, p. 336
参考文献
成瀬治 他 編 『世界歴史大系 ドイツ史 1』 山川出版社、1997年
瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年
柴田三千雄 他 編 『世界歴史大系 フランス史 1』 山川出版社、1995年
ハンス・K・シュルツェ 『西欧中世史事典U?皇帝と帝国?』 ミネルヴァ書房、2005年
堀越孝一 他 『世界の歴史 5 中世ヨーロッパ』 社会思想社、1974年
成瀬治 監修 『カラー世界史百科 増補版』 平凡社、1985年
Reuter, Timothy. Germany in the Early Middle Ages 800-1056. New York: Longman, 1991.
カール2世神聖ローマ皇帝
881年 - 887年次代
グイード
ランベルト
ルートヴィヒ3世東フランク国王
876年 - 887年次代
アルヌルフ
カルロマン2世西フランク国王
884年 - 887年次代
ウード
カルロマンノイタリア王
879年 - 887年次代
ベレンガーリオ1世
表
話
編
歴
カロリング朝第2代東フランク王(アレマニア担当、882年から単独王)(876年 - 887年)