カール3世の権威の上昇には、西ヨーロッパ全体の復興の可能性があった。しかし彼は優柔不断でその才能も熱心さもなく、病(てんかんと考えられている[3])を患っていた。サラセン人の侵入に対してイタリア遠征を繰り返したものの失敗に終わり、886年にはパリに侵攻してきたヴァイキングに対して、サンス地方への進出の許可および700リーヴルの支払いを約束し講和を結んだ[5][6]。さらに、庶子のベルンハルト、次いでプロヴァンス王ボソの子ルイ3世(プロヴァンス王・のち神聖ローマ皇帝 ルートヴィヒ3世)を後継者にしようとして失敗した[5]。
これによって、カール3世はますます弱腰で無能であるとみなされるようになり、887年11月には甥のアルヌルフがドイツを拠点に反乱を起こすに至った。しかしカール3世はナイディンゲンに逃れただけで何の策も打てず、トリブールの帝国議会において退位し[7]、2ヵ月後の888年1月13日に死去した。彼の歿後、アルヌルフが東フランクとロタリンギアを、ヴァイキングとの戦いに功があったパリ伯ウードが西フランクを、ルートヴィヒ1世の孫のフリウリ公ベレンガリオ1世がイタリアを、ルドルフ1世が上ブルグントを、ルイ3世(盲目王)がプロヴァンスをそれぞれ継承した。そしてこれより後、フランク王国がみたび統一されることはなかった。また、891年にはヴィドー家のスポレート公グイードが皇帝として戴冠した。 シュヴァーベンの伯エルハンガーの娘とみられるリヒャルディスと結婚したが[8]、嫡子は得られなかった。 以下の庶子がいる[9]。 先代 先代
子女
ベルンハルト(? - 891年?)
脚注^ 『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』カルル3世(肥満王)
^ 成瀬 他、pp. 52 - 53
^ a b c 瀬原、p. 55
^ 柴田 他、p. 171
^ a b 瀬原、p. 56
^ 堀越 他、p. 83
^ カラー世界史百科、p. 127
^ Reuter, p. 73
^ Reuter, p. 336
参考文献
成瀬治 他 編 『世界歴史大系 ドイツ史 1』 山川出版社、1997年
瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年
柴田三千雄 他 編 『世界歴史大系 フランス史 1』 山川出版社、1995年
ハンス・K・シュルツェ 『西欧中世史事典U?皇帝と帝国?』 ミネルヴァ書房、2005年
堀越孝一 他 『世界の歴史 5 中世ヨーロッパ』 社会思想社、1974年
成瀬治 監修 『カラー世界史百科 増補版』 平凡社、1985年
Reuter, Timothy. Germany in the Early Middle Ages 800-1056. New York: Longman, 1991.
カール2世神聖ローマ皇帝
881年 - 887年次代
グイード
ランベルト
ルートヴィヒ3世東フランク国王
876年 - 887年次代
アルヌルフ