ベルナドットは地元のベネディクト会派の修道院に通って教育を受けた[9]。15歳になると、地元の法律家のところへ見習いとして働きに出ている[9]。法律家の家に生まれたことと短期間だが知的訓練を受けたことが、後年のベルナドットの優れた行政管理能力の下地となったと言われる[10]。
初期の軍歴フランス王国軍時代のベルナドット
1780年3月に父親が死去したことで、一家は経済的苦境に陥ることになった[9]。同年9月、ベルナドットはフランス王国海軍の連隊に入隊する[11]。ベルナドットが所属した連隊は、コルシカ、ブザンソン、グルノーブル、ヴィエンヌ、マルセイユ、そしてレ島などに配備された[12][13]。
1785年6月16日、擲弾兵から伍長へと昇進、そして同年8月軍曹に至った[14]。背が高く細身のスマートな風采をしていた事から、『美脚軍曹』とあだ名されるようになる[14][15]。1784年に連隊は新しく任命された大佐を迎えており、彼は几帳面な働きぶりのベルナドットに目をかけ、新兵の教練や軍服の調達、剣術の師範といった任務を与えている[14]。大佐のアンベール侯爵ルイ・ド・メルルはフリーメイソンの会員で、その影響でベルナドットもフリーメイソンに入会したという[14]。
1788年6月、ベルナドットの連隊がグルノーブルに駐留していた時に、そこで起きた市民の暴動の制圧にあたった。ベルナドットはちょうど曹長に昇進したばかりで、ここで初めて実戦を経験した。この暴動は後にフランス全土を覆う革命につながっていく動乱の先駆けだった[16]。
1790年2月、当時のフランス王国軍の下士官としては最高位の連隊付副官になったが[17]、もしフランス革命が起きず、下士官と士官階級の間の身分差に基づく区別が一掃されなければ、これ以上の昇進は期待できなかったと考えられる[13]。この頃、革命精神に触発された王国軍所属の兵士たちの脱走や蜂起が相次いだが、ベルナドットは軍務に従い続けた[18]。1790年、革命の熱気が渦巻くマルセイユに駐屯していた時、上司の侯爵が貴族に反感を持つ民衆の怒りを買いリンチに遭いかけたが、同僚と共に救出している[17]。また、連隊がマルセイユ近くのランブクの町に駐留していた時には、革命に共感する兵士たちが蜂起するのを食い止めたという[13]。
同年夏、連隊はロシュフォール郊外のオレロン島に移動した。1791年、連隊はレ島にて第60歩兵連隊へと改編され、ベルナドットはそこで1年を過ごした[13]。 1792年、全ての王国軍が国民軍へと編成されると共に、ベルナドットも王国海軍の連隊での12年間の軍務を終え、新たに中尉に任命され、ブルターニュに配備された第36連隊に配属された[19]。すぐさま彼の連隊はライン方面軍
第1共和政および革命戦争時代フランス第1共和政期のベルナドット
ライン方面軍?サンブル・エ・ムーズ軍
1793年の春、プロイセン軍がライン川を渡河して進軍して来たことでフランス軍は押されて後退した。この頃スペインが参戦して来たため、ベルナドットはピレネー方面軍に配属されるよう、故郷ポーの兄に口利きを頼んでいる。兄への手紙の中で、ベルナドットは1793年5月にリュルツハイムにてオーストリア軍の反撃を受けた際に、いかに彼がパニックを起こした志願兵たちを防ぎ止めたか描写している。これは、ベルナドットがその後幾度も混乱した兵士たちを押しとどめ、鼓舞して軍隊を立て直した最初の事例のとなった[25][26]。この後、急速に昇進を重ねていく。シュパイアーとマインツの戦いの後、兵士の選挙によって1793年7月に大尉に昇進し、わずか3週間後には中佐に任命された。