カール14世ヨハン_(スウェーデン王)
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しかしカール・ヨハンが在世中に実施した安全保障としての中立政策は、スウェーデン国民の支持を得て、現代にまで継続する中立主義[注 1]武装中立[注 2])を創成したのである。「皆様、あなた方の王と同じくそれを望む限り、独立は永続するでしょう。自然と何よりも技術革新が人類に課す限界を超えてはなりません。たとえ侵略者への攻撃を止めることになっても、国境を越えることなく国内に戻って来るのです。両国の領土の10分の9は島嶼にあり、欧州大陸にはただ1箇所あるだけで、とりたて価値はありません。我々の船で全ての海を行き来すること、世界の平和を求めること、これらが我々の使命なのです。」 ? カール・ヨハン、1839年1月25日、議会にて「墓に横たわる前に」伝えるべきこととして[464]
ノルウェー政策ノルウェー国王戴冠式<1818年>

ノルウェーがスウェーデンと連合することで受けた大きな恩恵のひとつは、経済的拡大がもたらされたことである。1815年には物品や船舶数が拡張するよう互恵主義に基づいてスウェーデン?ノルウェー間の貿易における関税率の引き下げが行われた[428]。そして1820年代半ばまでに列強国とノルウェーとの間に貿易協定が次々と結ばれ対外貿易が活性化する。1816年にノルウェー銀行が設立され、さらに銀本位制が導入されたことは通貨の安定をもたらした[428]。さらにスウェーデンとイギリスによる漁業と農業への資本投下がなされた。農業は大きく活気付き、約3万haの農地から産出される穀物や芋類は国の需要の90%を賄うようになった[428]。1836年までには財政の健全化を達成し、ニシンや木材、鉱石類の輸出が増大するかたわら穀物輸入量は減少し、人口は100万を越えるようになった[428]。「2つの国民を、同じ代議制、同じ財政そして同じ法律で融合させ、友愛で結びつける。そなたはこの大きな目標を決して忘れてはならない。」カール・ヨハン
1821年10月22日、
王太子オスカルに向けて[465]

他方カール・ヨハンはスウェーデンとノルウェーが将来的に融合することを期待して双方の結合を強めようとしたが、スウェーデンとノルウェー間の憲法や社会背景の相違から困難に直面した。両国の憲法の最大の相違は、スウェーデン憲法で定められている国王の絶対的な議決拒否権が、もう片方では制限されていることである[466]。ノルウェー憲法は、議会(ストーティング)にて3度合意が得られれば国王の裁可を必要とせず法案が可決されるようを定めていた[467]。また階級社会が色濃く残っているスウェーデンと比べ、ノルウェー社会には貴族と呼べる階級はほとんどなく、わずかな中産階級と大部分の農民層で構成されていた[466]。またノルウェーの25歳以上の男子の45%が参政権を有しており、この割合は当時のヨーロッパのどの国よりも高かった[468]。従ってスウェーデンと比べてよりリベラルで、政治の保守化をもたらす要素が希薄だったと言える。

ノルウェー議会とカール・ヨハンの最初の対立は貴族制の廃止を巡って生じた。国王は2度とも反対したが3度目には屈して1821年に貴族制廃止法案を受け入れた[469]。反対の動機はノルウェー貴族の存在は王朝維持のためにも必要だと考えていたからとも[470]、自身が革命主義だと国内外にて受け止められることを懸念してとも言われている[471]。これは彼にとって、議決拒否権の制限によって自身の意思が通らなかった最初の事例となった[467]

国王は両国の融合にとって既存のノルウェー憲法が障害になるとみなしていたが、ノルウェーの政治家の多くは改憲に反対した[472]。1824年の議会にて国王は憲法修正案を提示する。それは国王の影響力を議決拒否権の強化と議会解散権の付与によって拡大しようとするものだった[472][473]。これは議会から反発を受け、またロシア含めた列強もノルウェーとの結合強化は支持しなかった[472][474]。もっとも一見リベラルなノルウェー憲法自体にも不完全性や曖昧性があることは否定できなかった。1院制の議会制度は権力の濫用や尚早な決定の防止を必ずしも保証するものではなく、よってある種の利権に対する制度的な弱点を孕んでいた[475]

1818年から1821年にかけ、ノルウェー議会においてボードー事件(英語版)と呼ばれる密輸事件を巡って議論は紛糾した。あるイギリス商人がノルウェーの港で密輸を行ったとしてノルウェー当局に逮捕されたところ、イギリス政府は弁償をせよと圧力をかけてきた[476]。当時、ノルウェーの外交はスウェーデン政府がその権利を有しており、最終的にノルウェー政府が支払いを行うことになった。この事件はノルウェーが個別の外交権を付与されていない事への不満につながった[477]。議会はストックホルムにいるノルウェー首相がノルウェーの外交問題に主体的に取り組んでいないとし、初の弾劾請求まで取りざたされた[478]。弾劾請求は政府と議会の間で争われ、最終的に財務大臣がわずかに責任を負うことになった。国王は憤り、早期の議会解散を行おうとしたが実際は意味をなさなかった[478]。「私の長い人生において、胸を痛ませる出来事が三つあります。一つ目は、母国フランスに剣を向け、その国旗の下でスウェーデン国民が私を王座に選んだ第一の動機である戦果を勝ち取ったこと。二つ目は、ノルウェーが私の善意を誤解し、私に武力でもってその領土を攻撃させたこと。三つ目は、昨年ノルウェー議会が5月17日を祝賀の日と定めたと知ったことです。」カール・ヨハン
1827年、ノルウェー議会にて[477]

更なる対立はノルウェー人が5月17日を憲法制定日として公的な記念日にしようとした際に発生する[477]。国王はむしろ両国が同君連合となった11月憲法の制定日を記念日にすることを望んだ[479]。1827年に5月17日に憲法を祝おうとする学生グループと軍隊の間で小競り合いが発生している[480]。その後国王が折れる形で、総督経由で国王から祝賀を「寛恕」するとの意見が表明された[481]

しかしながら、国王の閣僚や官僚たちが極めてノルウェー人に不人気でかつ公然と糾弾されているにもかかわらず、1820年代の議会との対立を経てもなお国王はノルウェーの民衆から高い人気を維持していたという[482]。カール・ヨハンの治世最後のノルウェー議会との衝突は1830年代の後半に起きた。そのひとつはノルウェー商船に掲げる国旗と通貨をノルウェー個別のものにしてスウェーデンとあくまで平等な国だと主張したいという要求だった[483]。もうひとつは、議会解散令に署名した閣僚を議員たちが弾劾しようとしたが、その前にカール・ヨハンが議会の解散を行ったことである[484]


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