カール14世ヨハン_(スウェーデン王)
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このような戦略上の難局を対処するのは初めての事だったが、ベルナドットは大きな犠牲を出すことなく成し遂げる[37][38]。戦後、他の将軍たちと同様にジュールダンの失敗に終わった作戦に対し不満を訴えた。その後9月3日にジュールダンはヴュルツブルクにてオーストリア軍に一撃を加えるべく進軍したが、ベルナドットは病気を理由に参加していない[39]
イタリア方面軍革命軍将軍ベルナドット

バイエルンから撤退後のフランス軍はライン川西岸に位置していた。1796年の秋、ベルナドットはコブレンツの総督を務めていたが、フランスの新聞にニュルンベルクにて部下に略奪を許したと不本意な内容を報じられた事に激怒して、パリに抗議に赴かせてくれるよう総裁政府に要求した[40]。敵の街を略奪することを特段許しがたい罪とも思っていなかった政府は、当初ベルナドットの抗議を真面目に受け取らなかったが、軍を辞めると言い出したところでこの将軍の奇妙なまでの繊細さに気づき、おだてて軍に残るように説得した[41]。またクレベールも、「自然国境まで制圧したし、ホームシックにかかったから軍を辞めたい」と言い出したベルナドットの説得にあたっている[42]。当時の五総裁の一人カルノーは面倒な将軍がパリに来ることを好まず、兵力が足りていないイタリア方面軍に補強と称して送ることにした[43]。こうして1797年の年初、ベルナドットはオーストリア軍と対峙しているナポレオン・ボナパルトを支援するためロンバルディアに向かうこととなる。

2師団から成る総勢2万人の兵を率いて、ベルナドットはディジョンリヨンシャンベリを経由し、モン・スニ峠を越えてトリノに到着した[44]。厳冬期の猛吹雪の中、大軍を率いてアルプス越えを無事成功させたことは驚くべき功績だと賞賛された[45]。ちなみに、ナポレオンがマレンゴの戦いに向けてアルプス越えを行ったのは、これより3年後の5月である。1797年2月22日、ベルナドットの軍はミラノに入城したが、イタリア方面軍からは冷淡な扱いを受けることになる[46]。ベルナドットはミラノ市駐留軍司令官であったドミニク・デュプイ大佐(英語版)から侮辱を受けたことで、彼を不敬と不服従の罪で逮捕しようとした[47]。もっともなことではあったが、運が悪いことにデュプイはベルティエの親友であった。この出来事がベルナドットとナポレオンの参謀長との長きに渡る確執の端緒になった[48]。「彼はとても良く応対してくれた。だが私には26?7歳の若者が50歳のように振る舞っているかに見えた。そして、私見だが、共和政にとって好ましくない兆候を感じた。」ーベルナドット

「ローマ人の精神とフランス人の頭脳を持った男。」?ナポレオン初対面での互いの印象について[49]

その後3月3日、マントゥアにてベルナドットはイタリア方面軍総司令官のナポレオンと初対面を果たす[49]。第4師団の指揮権を与えられたベルナドットは、大陸軍の右翼に配備されオーストリア軍に向かって進軍した。最初の命令はタリアメント川の渡河であった。ベルナドットは部下を鼓舞して自ら凍えた川に飛び込むと、銃火をかい潜って対岸にたどり着き、オーストリア軍の不意を打って抵抗を崩した(タリアメントの戦い(英語版))[50]。グラディスカの征服の際に次なる勝利を収めたが、これはベルナドットの兵力を相当消耗させる。正面からグラディスカ・ディゾンツォを攻略した際に兵500を失い、ナポレオンはこの損失は不必要だったと見なした[51]。かたやベルナドットはこの損失はナポレオンの不明瞭な命令によるものと捉えていた[52]レオーベンの和約の締結

ベルナドットはクロアチア師団を追撃し、ポストイナを占領した。ここでもベルナドットの軍隊はその振舞いの良さで現地住民からの賞賛を得た[52]。その後フランス軍はカルニオラを占領し、ベルナドットの軍隊はナポレオンの命令でイドリヤの水銀鉱を接収する。これにより得られた300万フランは本国に送られ国庫を潤し、その後4分の1がナポレオンに還元された[52]。他方ベルナドットも5万フランを手に入れた。その後、ライバッハからクラーゲンフルトを経てナポレオンの後に続く形でスティリアに至った。ベルナドットはグラーツエッゲンベルク城でナポレオンと合流し、ナポレオンはそこで停戦交渉を開始した。ベルナドットにとっては、欧州のパワー・ポリティクスの舞台に初登場したことになる[53]。1797年4月18日に停戦の合意がなされ(レオーベンの和約)、フランス軍はスティリアから撤退を始める。ベルナドットはフリウーリ州の総督に命じられ、ウーディネに司令部を置いて統治にあたった[54]。ベルナドットにとってこの任務は、軍政と民政の両面において広域にわたる管理責任を初めて担うものであった[55]。彼とナポレオンの関係は当初は友好的だったが、戦役を経て冷え込んで行く。ベルナドットはナポレオンの政策が「非情」で「冷笑的」なところに、ナポレオンはベルナドットの「得意げな態度」と「南部フランス人的な饒舌さ」に対しそれぞれ反感を抱いたとされる[56]。「たとえ貴方が欧州の征服を企てても、[王制支持派は]我々にそれができるとは微塵も思わないだろう。…将軍よ、人生の歓喜を享受することです。陰鬱な想像で自身を毒してはいけない。」ベルナドット
パリ滞在中にナポレオンに宛てた手紙にて[57]

1797年8月、ベルナドットはナポレオンの命令でパリに送られることになった。表向きの理由は獲得した敵の軍旗を総裁政府に届けることだったが、本音のところは独立心の強すぎるこの指揮官を体良く追い出すことであり、9月4日のフリュクティドール18日のクーデターへの支援も目的にあった[58][59]。しかしベルナドットは政府内の策動に対して慎重な姿勢を見せ、総裁ポール・バラスオージュローと協力してクーデターを起こすよう依頼しても拒否した[60]。このパリ滞在中にベルナドットはスタール夫人を始めとする政界や社交界のエリート達と知遇を得ている[61]

一方、ナポレオンはベルナドットがイタリアに戻らないよう策を巡らす。ベルナドットは南部方面軍総司令官を持ちかけられたがやる気にならず、ナポレオンが彼の第4師団を解体しようとしている噂を気にして10月に再びウーディネに戻って来た[62]


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