カール14世ヨハン_(スウェーデン王)
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ベルナドットの部下を鼓舞し規律を保つ才能は派遣議員のサン=ジュストの目を引き、彼から将軍への昇進を持ちかけられたが、この時は「その高位に見合う才能を備えていない」と辞退している[30]。その後1794年7月26日のフリュールスの戦い(英語版)にて、彼の部隊は際立った働きを見せ、クレベールの後押しを得て少将に昇進する。同年10月のマーストリヒトの攻囲戦(オランダ語版)とアルデンホーフェンの戦い(英語版)の後、10月22日にベルナドットは革命軍の最高位にあたる中将に任命された[31]

ベルナドットは一般民衆を尊重し、軍隊によって被害を被らないよう配慮をしていた。「規律が無い軍隊は勝利を手にすることはできても、その勝利を活かすことができない」を信条として、部下の兵が略奪や暴行を行わないよう厳格な規律を敷いた[32][33]。1795年の戦役にてベルナドットが記した書簡からは、彼が兵士たちの食料補給のこと、傷病兵の世話についてなど、部下の福祉にも気を配っていたことが示される。また、陸軍病院の運営に関しても、傷病兵が十分な治療を受けられるよう詳細な指導を行った[34]。1795年の冬、ベルナドットの師団がバート・クロイツナハを占領した際に数名の兵が略奪を試みた。この時代多くの将軍は陥落した街を思いのままにしていたが、ベルナドットは有罪者を罰し、被害を受けた家々には弁償している[35]。「見栄えする所作と指揮官らしい容姿を生まれ持っていた。指揮官の職務の細部を良く把握しており、かつ部下の福祉に上手に気を配っていたので、兵たちに愛されていた。彼の特徴は親切さよりも規律重視の厳格さが上回った。」サラザン(当時のベルナドットの部下)[32]

ボッパルトで冬を越した後、ベルナドットの軍は1796年6月11日にライン川を越えてノイヴィートに進軍する。ラーン川で他の軍と集結した際にオーストリア軍の反撃を受けて、総司令官のジュールダンは全軍にライン川まで後退するよう命じた。その後ベルナドットはダルムシュタットニュルンベルクへ進軍した。そしてアルトドルフにてジュールダンからレーゲンスブルクに向かうよう作戦指示を受ける。1796年8月22日、軍はノイマルクトとダイニングの間に位置していたが、そこでカール大公率いる優勢のオーストリア軍に攻撃を受け撤退をした[36]。この撤退戦でベルナドットは、3?4倍の兵力のオーストリア軍を相手にして殿軍を務めた。このような戦略上の難局を対処するのは初めての事だったが、ベルナドットは大きな犠牲を出すことなく成し遂げる[37][38]。戦後、他の将軍たちと同様にジュールダンの失敗に終わった作戦に対し不満を訴えた。その後9月3日にジュールダンはヴュルツブルクにてオーストリア軍に一撃を加えるべく進軍したが、ベルナドットは病気を理由に参加していない[39]
イタリア方面軍革命軍将軍ベルナドット

バイエルンから撤退後のフランス軍はライン川西岸に位置していた。1796年の秋、ベルナドットはコブレンツの総督を務めていたが、フランスの新聞にニュルンベルクにて部下に略奪を許したと不本意な内容を報じられた事に激怒して、パリに抗議に赴かせてくれるよう総裁政府に要求した[40]。敵の街を略奪することを特段許しがたい罪とも思っていなかった政府は、当初ベルナドットの抗議を真面目に受け取らなかったが、軍を辞めると言い出したところでこの将軍の奇妙なまでの繊細さに気づき、おだてて軍に残るように説得した[41]。またクレベールも、「自然国境まで制圧したし、ホームシックにかかったから軍を辞めたい」と言い出したベルナドットの説得にあたっている[42]。当時の五総裁の一人カルノーは面倒な将軍がパリに来ることを好まず、兵力が足りていないイタリア方面軍に補強と称して送ることにした[43]。こうして1797年の年初、ベルナドットはオーストリア軍と対峙しているナポレオン・ボナパルトを支援するためロンバルディアに向かうこととなる。

2師団から成る総勢2万人の兵を率いて、ベルナドットはディジョンリヨンシャンベリを経由し、モン・スニ峠を越えてトリノに到着した[44]。厳冬期の猛吹雪の中、大軍を率いてアルプス越えを無事成功させたことは驚くべき功績だと賞賛された[45]。ちなみに、ナポレオンがマレンゴの戦いに向けてアルプス越えを行ったのは、これより3年後の5月である。1797年2月22日、ベルナドットの軍はミラノに入城したが、イタリア方面軍からは冷淡な扱いを受けることになる[46]。ベルナドットはミラノ市駐留軍司令官であったドミニク・デュプイ大佐(英語版)から侮辱を受けたことで、彼を不敬と不服従の罪で逮捕しようとした[47]。もっともなことではあったが、運が悪いことにデュプイはベルティエの親友であった。この出来事がベルナドットとナポレオンの参謀長との長きに渡る確執の端緒になった[48]。「彼はとても良く応対してくれた。だが私には26?7歳の若者が50歳のように振る舞っているかに見えた。そして、私見だが、共和政にとって好ましくない兆候を感じた。」ーベルナドット

「ローマ人の精神とフランス人の頭脳を持った男。」?ナポレオン初対面での互いの印象について[49]

その後3月3日、マントゥアにてベルナドットはイタリア方面軍総司令官のナポレオンと初対面を果たす[49]。第4師団の指揮権を与えられたベルナドットは、大陸軍の右翼に配備されオーストリア軍に向かって進軍した。最初の命令はタリアメント川の渡河であった。ベルナドットは部下を鼓舞して自ら凍えた川に飛び込むと、銃火をかい潜って対岸にたどり着き、オーストリア軍の不意を打って抵抗を崩した(タリアメントの戦い(英語版))[50]。グラディスカの征服の際に次なる勝利を収めたが、これはベルナドットの兵力を相当消耗させる。正面からグラディスカ・ディゾンツォを攻略した際に兵500を失い、ナポレオンはこの損失は不必要だったと見なした[51]。かたやベルナドットはこの損失はナポレオンの不明瞭な命令によるものと捉えていた[52]レオーベンの和約の締結

ベルナドットはクロアチア師団を追撃し、ポストイナを占領した。ここでもベルナドットの軍隊はその振舞いの良さで現地住民からの賞賛を得た[52]。その後フランス軍はカルニオラを占領し、ベルナドットの軍隊はナポレオンの命令でイドリヤの水銀鉱を接収する。これにより得られた300万フランは本国に送られ国庫を潤し、その後4分の1がナポレオンに還元された[52]。他方ベルナドットも5万フランを手に入れた。その後、ライバッハからクラーゲンフルトを経てナポレオンの後に続く形でスティリアに至った。


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