カール14世ヨハン_(スウェーデン王)
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ベルナドットが所属した連隊は、コルシカブザンソングルノーブル、ヴィエンヌ、マルセイユ、そしてレ島などに配備された[12][13]

1785年6月16日、擲弾兵から伍長へと昇進、そして同年8月軍曹に至った[14]。背が高く細身のスマートな風采をしていた事から、『美脚軍曹』とあだ名されるようになる[14][15]。1784年に連隊は新しく任命された大佐を迎えており、彼は几帳面な働きぶりのベルナドットに目をかけ、新兵の教練や軍服の調達、剣術の師範といった任務を与えている[14]。大佐のアンベール侯爵ルイ・ド・メルルはフリーメイソンの会員で、その影響でベルナドットもフリーメイソンに入会したという[14]

1788年6月、ベルナドットの連隊がグルノーブルに駐留していた時に、そこで起きた市民の暴動の制圧にあたった。ベルナドットはちょうど曹長に昇進したばかりで、ここで初めて実戦を経験した。この暴動は後にフランス全土を覆う革命につながっていく動乱の先駆けだった[16]

1790年2月、当時のフランス王国軍の下士官としては最高位の連隊付副官になったが[17]、もしフランス革命が起きず、下士官と士官階級の間の身分差に基づく区別が一掃されなければ、これ以上の昇進は期待できなかったと考えられる[13]。この頃、革命精神に触発された王国軍所属の兵士たちの脱走や蜂起が相次いだが、ベルナドットは軍務に従い続けた[18]。1790年、革命の熱気が渦巻くマルセイユに駐屯していた時、上司の侯爵が貴族に反感を持つ民衆の怒りを買いリンチに遭いかけたが、同僚と共に救出している[17]。また、連隊がマルセイユ近くのランブクの町に駐留していた時には、革命に共感する兵士たちが蜂起するのを食い止めたという[13]

同年夏、連隊はロシュフォール郊外のオレロン島に移動した。1791年、連隊はレ島にて第60歩兵連隊へと改編され、ベルナドットはそこで1年を過ごした[13]
第1共和政および革命戦争時代フランス第1共和政期のベルナドット
ライン方面軍?サンブル・エ・ムーズ軍

1792年、全ての王国軍が国民軍へと編成されると共に、ベルナドットも王国海軍の連隊での12年間の軍務を終え、新たに中尉に任命され、ブルターニュに配備された第36連隊に配属された[19]。すぐさま彼の連隊はライン方面軍(英語版)に組み込まれ、外国との戦いに赴く事になる[20]。ライン方面軍はダントンの提唱する自然国境論に基づいてライン川を制圧目標とした。この自然国境論はベルナドットの領土認識に深い印象を与え、後年彼の政策上の指標となったと指摘される[21]。連隊が東方に向かって行軍しているその時、革命は新たな段階に移行して、国民公会からの派遣議員が軍隊を監督するようになった[22]ヴァルミーの戦いでフランス軍が勝利を収めた後、ベルナドットの連隊はビンゲン・アム・ラインに配備され冬を越した[23]。「フランスの境界は自然に基づいて定義される。それは、海、ライン川、アルプス山脈、ピレネー山脈の4地点である。」ダントン[24]

1793年の春、プロイセン軍がライン川を渡河して進軍して来たことでフランス軍は押されて後退した。この頃スペインが参戦して来たため、ベルナドットはピレネー方面軍に配属されるよう、故郷ポーの兄に口利きを頼んでいる。兄への手紙の中で、ベルナドットは1793年5月にリュルツハイムにてオーストリア軍の反撃を受けた際に、いかに彼がパニックを起こした志願兵たちを防ぎ止めたか描写している。これは、ベルナドットがその後幾度も混乱した兵士たちを押しとどめ、鼓舞して軍隊を立て直した最初の事例のとなった[25][26]。この後、急速に昇進を重ねていく。シュパイアーとマインツの戦いの後、兵士の選挙によって1793年7月に大尉に昇進し、わずか3週間後には中佐に任命された。この昇進はベルナドットが属する第36連隊がラインからベルギー沿岸に移動している時になされた。ウェルヴィクとメーネンにてイギリス軍と交戦し、イギリス軍の基地があるオーステンデとの連絡線を脅かした[27]フリュールスの戦い<1794年>

1794年4月4日、大佐に昇進し、更にラザール・カルノーの軍制改革の結果として、第71半旅団の指揮権を委ねられる。その後ベルナドットの部隊はサンブル・エ・ムーズ軍(英語版)へと編入された[28]。このサンブル・エ・ムーズ軍にてネイクレベールジュールダン、マルソー(英語版)らと親しくなる[29]。最初の小競り合いは不首尾に終わり、ベルナドットは部下の兵士たちが敵の前から逃げ出そうとするのを食い止めねばならなかった[28]。ベルナドットの部下を鼓舞し規律を保つ才能は派遣議員のサン=ジュストの目を引き、彼から将軍への昇進を持ちかけられたが、この時は「その高位に見合う才能を備えていない」と辞退している[30]。その後1794年7月26日のフリュールスの戦い(英語版)にて、彼の部隊は際立った働きを見せ、クレベールの後押しを得て少将に昇進する。同年10月のマーストリヒトの攻囲戦(オランダ語版)とアルデンホーフェンの戦い(英語版)の後、10月22日にベルナドットは革命軍の最高位にあたる中将に任命された[31]

ベルナドットは一般民衆を尊重し、軍隊によって被害を被らないよう配慮をしていた。「規律が無い軍隊は勝利を手にすることはできても、その勝利を活かすことができない」を信条として、部下の兵が略奪や暴行を行わないよう厳格な規律を敷いた[32][33]。1795年の戦役にてベルナドットが記した書簡からは、彼が兵士たちの食料補給のこと、傷病兵の世話についてなど、部下の福祉にも気を配っていたことが示される。


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