カール大帝
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カールに仕えて「カール大帝伝」を記したアインハルトは、「カールの出生については公表されておらず、もはやそれを知るものも残っておらず、それを書き記すことは不適切だ」としてカールの出生について沈黙している[4]。カールの生年は一般には742年であると考えられているが、父ピピン3世と正妻ベルトレドの結婚は744年以降と考えられており、カールが姻前子であったかベルトレド以外の女性から産まれた子であった可能性が考えられる[5][6]佐藤彰一は、アインハルトがカールの出生について書き記さなかったのは、このことに議論が及ぶ事態を恐れたからではないかと推測している[7]。一方、K.F.ヴェルナー(ドイツ語版、フランス語版)やベッヒャー(ドイツ語版)は「ペトーの年代記」に記された747年または748年をカールの正しい生年としている[6]。この場合、ピピン3世とベルトレドの結婚年に744年説を採用すれば、前述の矛盾は解決されることとなる。もっとも、「フランク王国年代記」と「サン・ベルタン年代記」はピピン3世とベルトレドの結婚を748年または749年としており[7]、この記述を採用する場合、やはりカールには私生子の疑惑がつきまとうこととなる。ベルトレドの子とされる弟カールマンとの不仲に、彼の出生の疑惑がかかわっていたかどうかは判然としない[8]。出生地についても、アーヘンで生まれたとする説[9]や、エルスタルで生まれたとする説[10]があり定まってはいない。今日、「ラン(Laon)伯Heribertの娘」と記されるベルトラダ(ベルタ)は[11]、「ブリタニアの王女」(Tochter des Konigs von Britannien)であり、しかも一旦は、求婚の使者となったピピンの執事によってその娘に王妃の座をだまし取られたものの、最後には王妃となる伝説がある [12]
即位まで

ピピン3世の子のうち、カール、カールマン、ギゼラの3人が成人し、男子であるカールとカールマンが後継者とされた。すでに751年にはピピン3世は主君だったメロヴィング朝キルデリク3世から王位を簒奪してフランク国王に即位しており[13]、また754年にローマ教皇ステファヌス2世サン=ドニ大聖堂まで赴いて塗油した際、ピピンは後継者であるカールとカールマンへの塗油も望み、これが実行されていた[8]768年にピピンが死去すると、フランクの相続法に従い王国は二分され、カールはアウストラシアネウストリアを、カールマンはブルグントプロヴァンスラングドックを手に入れたが、両者の間は不仲であったとされる[8]771年にカールマンが死去するとカールマンの妻であるゲルベルガは幼子とともにランゴバルド王国へと亡命し、カールはフランク全域の王となった[14]
外征と西ヨーロッパ世界の政治的統一16世紀発行の『ローランの歌』におけるカールの肖像

カールの生涯の大半は征服行で占められていた。46年間の治世のあいだに53回もの軍事遠征をおこなっている。

父ピピン3世の死後、イタリアランゴバルド王国の国王デシデリウスは王女をカールの妃としてフランク王国からの脅威を取り除き、ローマ教会への影響力を強めて勢力挽回を図ろうとした[注 2]770年、カールは王女と結婚したが、デシデリウスがローマへの攻撃を開始し、773年ローマ教皇ハドリアヌス1世がカールに援軍を要請するに至って、カールは義父デシデリウスと対決することに方針を定め、妃を追い返してアルプス山脈を越えイタリアに攻め込んだ(ランゴバルド戦役(de:Langobardenfeldzug))。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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