カール・マリア・フォン・ウェーバー
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片足が不自由であり、小児麻痺であったとも伝えられる。

ウェーバーが生まれた次の年、父は劇団を結成する。こうして彼は、幼いころからドイツ、オーストリア全土を回ることとなった。幼少の際、彼はこれといって特別な才能は見せなかった。しかし、9歳のときヒルトブルクハウゼン(英語版)でヨハン・ホイシュケル(英語版)から本格的な音楽教育を受け、才能を見せる。その後も旅先で音楽教育を受け、ザルツブルクではミヒャエル・ハイドンフランツ・ヨーゼフ・ハイドンの弟)、ウィーンでは、ウィーン音楽院の前身校でゲオルク・ヨーゼフ・フォーグラーにも師事している。1798年から99年にかけて初のオペラ『愛と酒の力』("Die Macht der Liebe und des Weins", J. Anh. 6)を作曲するが、翌1800年に火事で消失している。

1804年、ブレスラウ(現ヴロツワフ)のカペルマイスターに就任。しかし自身の理想主義的傾向や、父の投機的な性格が災いし、2年後には楽長を退く。この年にエッチング用の硝酸ワインと間違え飲んでしまい、声を出せなくなった(声を失うまではかなりの美声だったと言われる)。その後カールスルーエミュンヘンなどドイツ各地を転々とする。

1813年プラハ歌劇場の芸術監督に就任し、オペラの改革に尽力する。モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』上演以後、低落していた歌劇場を見事に再興させた。

1817年ザクセン宮廷楽長に任命され、ドレスデン歌劇場(現在のゼンパー・オーパーの前身)に移る。当時宮廷ではイタリア・オペラが主流であったが、ウェーバーは自身のドイツ・オペラをもって彼らに戦いを挑む。結果は成功し、ドイツ・オペラを根付かせることに成功する。また、当時最高のピアニストとしてヨーロッパ各地で演奏を行った。

1821年ベルリンで『魔弾の射手』が初演されると大反響を呼び、ドイツ国民オペラの金字塔を打ち立てた。この『魔弾の射手』を観て、ワーグナーベルリオーズなど、後に大作曲家となる多くの人物が作曲家を志したとも言われている。この頃からウェーバーの作風に暗い影が漂い始め、ピアノソナタ第4番の極度に厭世的な冒頭を持つ第1楽章などにその兆候が現れ始める。

1826年ロンドンコヴェント・ガーデン歌劇場の依頼により、英語によるオペラ『オベロン』を作曲する。そのとき彼は結核を患っていたが、家族を養うため病苦を押して渡英し(家族には病状を隠していた)、自ら指揮棒を振り大成功を収めた。しかしその後病状が悪化し、同年6月5日、ロンドンで客死。39歳であった。コヴェントガーデンに面するセント・ポール教会に埋葬されたが、18年後の1844年12月、彼の音楽的な遺志をつぐこととなったワーグナーの力添えにより、息子マックスに見守られながらロンドンからドレスデンに帰還した[1]デスマスクが現存する[2]

『魔弾の射手』はヴルフ・コーノルト『ドイツオペラの知識』(シンフォニア刊、1999年)でドイツでの上演人気30傑に挙げられているが、ドイツオペラの全曲レコードを精力的に残したベームカラヤンショルティの3人は、このオペラのスタジオ録音を残していない。ドイツ圏の外での上演はさらに少なく、歴史的名声の高さに比してやや寂しい状況にある。録音としては、カルロス・クライバーのデビュー盤が有名である。
作品

作品目録は、一般にフリードリヒ・ヴィルヘルム・イェーンス(Friedrich Wilhelm Jahns)の"C.M.von Weber in seinen Werken" (1871/1967) によるイェーンス番号 (J.) が用いられている。詳細は「ウェーバーの楽曲一覧」を参照
オペラ

『森の娘』Anh.1(断片のみ現存)(1800年初演)

『ペーター・シュモルとその隣人たち』J.8 (1803年初演)

『リューベツァール』(断片のみ現存) (1804年初演)

『シルヴァーナ』J.87 (1810年初演)

アブ・ハッサン』J.106 (1811年初演)

『3人のピント』Anh.5(1幕のスケッチのみ、マーラー補筆完成) (1820?21年、1888年初演)


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