カール・ポパー
[Wikipedia|▼Menu]
フリードリヒ・ハイエクミルトン・フリードマンイムレ・ラカトシュポール・ファイヤアーベントジョージ・ソロスデイヴィッド・ミラーバートリーエルンスト・ゴンブリッチコンラート・ローレンツピーター・メダワーハンス・アルバートアーネスト・ゲルナートーマス・クーンシュミットナシーム・ニコラス・タレブその他多数

テンプレートを表示

サー・カール・ライムント・ポパー(Sir Karl Raimund Popper, CH FRS FBA1902年7月28日 - 1994年9月17日)は、オーストリア出身のイギリス哲学者ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス教授。

純粋な科学的言説の必要条件として反証可能性を提起し、批判的合理主義に立脚した科学哲学及び科学的方法の研究の他、社会主義や全体主義を批判する『開かれた社会とその敵』を著すなど社会哲学政治哲学も展開した。

フロイト精神分析アドラー個人心理学マルクス主義歴史理論人種主義的な歴史解釈を疑似科学を伴った理論として批判[1]ウィーン学団には参加しなかったものの、その周辺で、反証主義的観点から論理実証主義を批判した。
生涯

ポパーは1902年にウィーンの中流家庭で生まれた。元来がユダヤ系だった両親はキリスト教に改宗しており、ポパーもまたルター派の教育を受けた。弁護士であったポパーの父親は愛書家で、書斎には1万2千から1万4千冊の蔵書を有していたと言われ、ポパーはその様な自身の父親について「弁護士というよりは学者」であったと述べている。

13歳でポパーはマルクス主義者になったが、1919年にウィーンで社会主義者共産主義者のデモ隊と警察の衝突で若者が死亡した事件がおきると、17歳で反マルクス主義者となった[2]。その後も30歳までは社会主義者であったが、自由と社会主義が両立しうるか疑いを強めていった[2]

1928年ウィーン大学にて哲学の博士号を取得し、1930年からの6年間中学校で教鞭を取った後、1937年に『科学的発見の論理』(Logik der Forschung)を発表。心理主義自然主義帰納主義論理実証主義を批判し、科学の必要条件として反証可能性を提起し、理論として発展させた。

1937年ナチスによるオーストリア併合(アンシュルス)の脅威が高まると、ユダヤ系オーストリア人であったポパーは、ニュージーランドに移住し、南島クライストチャーチにあるカンタベリー大学で哲学講師となった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:96 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef