パーキンスはギターの練習に励み、翌年にかつてグランド・オール・オープリーで聴いたエイカフの『The Great Speckled Bird』、『Wabash Cannonball』を演奏できるようになった。またパーキンスはこの頃にビル・モンローの演奏法と歌唱法に影響を受けた[11]。またジョン・リー・フッカーを手本にして練習する[要出典]。これらの経験が、カントリーのビートでブルースを演奏するロカビリーの原点を作り上げたのである[要出典]。
やがて、パーキンスは同じ農園で働く黒人で友人のジョン・ウェストブルックからギターの奏法を習った。周囲に黒人が多い中、唯一の白人家庭に育ったパーキンスは[要出典]、自然と黒人の音楽にも触れる様になった。パーキンスが「アンクル・ジョン」と呼んでいた彼は、当時60代のアフリカ系アメリカ人で、使い古したアコースティック・ギターでブルースやゴスペルを演奏していた。ウェストブルックはパーキンスを指導した際、「下げて体に近づけろ。弦と頭を通して自分がいる所に魂が下りてくるのを感じることができる。振動してみよう」と助言したことで知られている。弦が切れても買えないため、当時のパーキンスはそれらを繋いで再使用した。他の音を出すためにスライドさせるとその結び目で指を切ってしまうことがあるため、わざと外してできたのがブルー・ノート・スケールである[5][12]。
Lake County Fourth Grade Marching Band のメンバーに採用され、経済的理由によりバンドの指導者であるリー・マカッチャンに新しい白いシャツ、コットン・パンツ、白い帽子、赤いケープを与えられた[13]。
1947年1月、パーキンス一家はテネシー州レイク郡からマディソン郡に転居した。よりメンフィスに近付いたため、様々なジャンルの音楽をラジオで聴くことができるようになった[14]。14歳の頃にカントリー・ミュージックで標準であったI IV Vのコード進行で[15]、「Let Me Take You To the Movie, Magg」(Movie Magg)を作曲し、後にこの曲でサム・フィリップスはパーキンスとサン・レコードを通じて契約することを決めた[16]。 1946年末のように毎週水曜日、パーキンスと兄のジェイはテネシー州ジャクソンの南へ約12マイルの45号線沿いの酒場コットン・ボールでチップを得ることで初めてプロとしての演奏を行った。パーキンスはこの時まだ14歳であった。アップテンポに変更しカントリーとブルースの要素をミックスしたビル・モンローの「ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー」などを演奏した。演奏の報酬の1つとして飲み物が無料となったため、初めての演奏の夜にパーキンスはビールを4杯飲んだ。それから1ヶ月も経たないうちにジャクソンの西の境界近くの酒場サンド・ディッチで毎週金曜日と土曜日に定期出演を開始した。どちらの酒場でも、パーキンス兄弟は喧嘩に参加することで有名だった[17]。 その後2年間、パーキンス・ブラザーズはジャクソン周辺のエル・ランショ、ザ・ロードサイド・イン、ザ・ヒルトップなど他の酒場でも演奏を始め、よく知られるようになった。パーキンスは弟のクレイトンを説得してベースフィドルを演奏させてバンドに取り込んだ[18]。 1940年代後半、パーキンスはテネシー・ランブラーズのメンバーとしてジャクソンのラジオ局WTJS-AMにレギュラー出演していた。『Hayloft Frolic』にも出演し、『グランド・オール・オープリー』でのロバート・ランの「Talking Blues」など2曲を演奏していた。『The Early Morning Farm and Home Hour』に最初はパーキンスのみ、後に兄弟も出演した。圧倒的な支持を受け、マザーズ・ベスト・フラワー提供の15分間のコーナーを持つことになった。1940年代終盤、パーキンス・ブラザーズはジャクソンでは最も有名なバンドになった[19]。 パーキンスはこの数年間、音楽の他に仕事を持っており、当初綿花摘みをしていたがその後デイズ・デイリーに勤務し、さらにその後はマットレス工場と電池工場に勤務した。1951年から1952年まではコロニアル・ベイキング・カンパニーに勤務した[20][21]。 1953年1月、パーキンスは長年の知人であったヴァルダ・クライダーと結婚した。妻が代わりに働き始めたことでパーキンスはパン工場での勤務時間を減らし、週6日演奏できるようになった。同年後期、それまで音楽の経験がなかったが天性のリズム感があるW・S・ホランドがドラム奏者として参加した[22]。 マルコム・イエルヴィントン
初期