カール・パーキンス
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ポール・マッカートニーは「もしもカール・パーキンスがいなかったら、ビートルズは存在しなかった」と語った[6]

「ロカビリー界の王」と呼ばれ、ロックの殿堂ロカビリーの殿堂、ナッシュヴィル作曲家の殿堂に殿堂入りし、グラミーの殿堂入りも果たした[2]

ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第99位。

2011年、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において第88位。
来歴
生い立ち

テネシー州ティプトンヴィル近郊の貧しい小作農家で、イングランド系ドイツ系の血を引く父バックと母ルイーズの次男として生まれた(兄ジェイ・パーキンス、弟クレイトン・パーキンス。後にこの2人と、友人のW. S. ホーランドと共にバンドを結成する)[7]。6歳から綿花農園のアフリカ系アメリカ人労働者が歌うアメリカ合衆国南部ゴスペルを聴いて育った[8]パーキンスは、学校から帰宅後農園で働いた。夏季には12から14時間にも及んだ労働により、パーキンスと兄のジェイは2人合わせて日当50セントを受け取っていた。借金を負わずに家族全員と共に働いた結果、パーキンスは豆や芋だけでなく父のたばこの他に時々5セントの飴を買うこともできた[9]

ある土曜の夜、父と共にラジオで『グランド・オール・オープリー』を聴き、ロイ・エイカフに影響されたパーキンスは両親にギターをねだった[10][要ページ番号]。父は本物のギターを購入できなかったため、たばこの箱と箒の柄を使ってギターを制作した。後に貧困に窮した近所の住民が、中古の弦と使い古されたギター(ジーン・オウトリー・モデル)の売却を申し出たため、父は2ドルで買い取ってパーキンスに与えた。

パーキンスはギターの練習に励み、翌年にかつてグランド・オール・オープリーで聴いたエイカフの『The Great Speckled Bird』、『Wabash Cannonball』を演奏できるようになった。またパーキンスはこの頃にビル・モンローの演奏法と歌唱法に影響を受けた[11]。またジョン・リー・フッカーを手本にして練習する[要出典]。これらの経験が、カントリーのビートでブルースを演奏するロカビリーの原点を作り上げたのである[要出典]。

やがて、パーキンスは同じ農園で働く黒人で友人のジョン・ウェストブルックからギターの奏法を習った。周囲に黒人が多い中、唯一の白人家庭に育ったパーキンスは[要出典]、自然と黒人の音楽にも触れる様になった。パーキンスが「アンクル・ジョン」と呼んでいた彼は、当時60代のアフリカ系アメリカ人で、使い古したアコースティック・ギターでブルースやゴスペルを演奏していた。ウェストブルックはパーキンスを指導した際、「下げて体に近づけろ。弦と頭を通して自分がいる所に魂が下りてくるのを感じることができる。振動してみよう」と助言したことで知られている。弦が切れても買えないため、当時のパーキンスはそれらを繋いで再使用した。他の音を出すためにスライドさせるとその結び目で指を切ってしまうことがあるため、わざと外してできたのがブルー・ノート・スケールである[5][12]

Lake County Fourth Grade Marching Band のメンバーに採用され、経済的理由によりバンドの指導者であるリー・マカッチャンに新しい白いシャツ、コットン・パンツ、白い帽子、赤いケープを与えられた[13]

1947年1月、パーキンス一家はテネシー州レイク郡からマディソン郡に転居した。よりメンフィスに近付いたため、様々なジャンルの音楽をラジオで聴くことができるようになった[14]。14歳の頃にカントリー・ミュージックで標準であったI IV Vのコード進行で[15]、「Let Me Take You To the Movie, Magg」(Movie Magg)を作曲し、後にこの曲でサム・フィリップスはパーキンスとサン・レコードを通じて契約することを決めた[16]
初期

1946年末のように毎週水曜日、パーキンスと兄のジェイはテネシー州ジャクソンの南へ約12マイルの45号線沿いの酒場コットン・ボールでチップを得ることで初めてプロとしての演奏を行った。パーキンスはこの時まだ14歳であった。アップテンポに変更しカントリーとブルースの要素をミックスしたビル・モンローの「ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー」などを演奏した。


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